1347年(正平2) 楠木正行×細川顕氏 --誉田八幡宮境内に立つ碑-- |
交通 | 各線「道明寺駅」から徒歩15分。 |
誉田八幡宮付近は、南北朝期から室町戦国の各時代、戦略上の要地であった為、度々合戦の舞台となる。 ●1347年(正平2)北朝方の細川顕氏・頼春兄弟と南朝方楠木正行との間で合戦が行われた。8月14日和泉・河内守護細川顕氏は3千の兵を率いて京を発し、天王寺から堺浦に布陣した。9月9日正行は顕氏を誘き出す為、八尾城を攻め、これに細川勢が藤井寺に進軍すると、正行は翌10日攻撃を中止し、誉田まで撤兵する。17日正行は起伏に富んだ誉田の地形を利用し、誉田八幡の山陰から敵陣に迫り、夜襲した。顕氏は激しく抵抗するが、兵は浮き足立ち、その後天王寺に敗走した。 ●1452〜54年(享徳年間)には畠山弥三郎・政長と畠山持国・義就らが家督を巡り、再三誉田合戦が行われ、やがて御霊社合戦に始まる応仁の乱に繋がっていく。 ●1504年(永正1)には政長の孫にあたる畠山稙長と義英との合戦の後に和議となり、誉田八幡宮「社前の盟約」がこの境内で行われた。 ●1615年(慶長20)5月、道明寺合戦では薄田隼人正兼相がこの境内に陣し、ここから出陣して道明寺近辺で討死した。 |