大阪府八尾市本町7丁目 --八尾神社境内に立つ城址碑-- |
別名 | |
交通 | 近鉄大阪線「近鉄八尾駅」から徒歩10分。 |
築城年代 | 南北朝時代 |
築城者 | 別当兼幸(顕幸)か |
形式 | 平城 |
主な城主 | 池田丹後守教正 |
南北朝時代、石清水八幡の所領を管理したと推定され、後に土豪として八尾一帯に勢力を張った別当兼幸により築かれたと考えられている。始め別当兼幸は南朝方と対立していたが、1333年(正慶2)南朝方に変わり、赤坂に移ると、以後八尾城は北朝方の支配下に入った。 戦国時代に入ると、河内国は高屋城・若江城の両城が南と北の主要城郭となり、八尾城をはじめとする諸城は戦略的に重要視されなくなった。 その後織豊時代、池田丹後守教正の居城として八尾城は再び歴史の舞台に登場する。池田教正は、1573年(天正1)織田信長が三好義継を攻めた際、義継の老臣の一人であったが、野間・多羅尾両氏と共に信長に内応し、この為義継は自害して果てた。この後教正は若江三人衆筆頭として若江城を預かった。一説にこれ以前既に八尾城主であったともいわれるが明らかではない。信長の石山本願寺攻めが終わると、教正は若江城から八尾城に居城を移したと思われる。 1584年(天正12)長久手合戦の後、教正は美濃へ移り、その後の八尾城については判然としない。 八尾城の所在地については南本町や高美町付近にあったとする八尾座所在説もある。 |