黒田孝高(官兵衛・如水)・長政父子で知られる黒田氏の出自は諸説あり、通説では近江国伊香郡黒田村とされる。一方江戸時代に編纂された播磨の地誌類や記録類によると、1351年(観応2)赤松則村(円心)の弟である円光の子重光がこの地に来住して黒田七郎重光と称し、黒田氏の祖となったといわれる。以後代々黒田氏は続くが、1572年(元亀3)5月、9代治隆の時、石原城主石原掃部助・後屋城主赤井五郎連合軍に敗れ、黒田城は落城、治隆以下、一族郎党は滅亡したという。また8代重隆の2男が孝高(官兵衛・如水)であるとされている(通説では重隆は孝高の祖父)。孝高はそれ以前、姫路城主小寺職隆の養子となり、御着城主小寺政職の家老になっていたというが、付近には落城の際、家老が幼い孝高と母於松を加古川を渡って逃がし、於松は増水した川で溺死、孝高は姫路へ逃れ、孝高と於松の別れの地となった「松ヶ瀬」等があり、年代的に不明な点が多い。 現在稲荷神社が建つ半独立山に築かれている。社殿が建つ山頂を主郭とし、東西に前郭・東郭、北に出丸を置き、土塁や櫓台が残されているが、神社境内の削平の為、改変されているようで、全体的に不明瞭である。 西麓には屋敷跡である「姥が懐」があり、黒田官兵衛生誕地碑が立つ。また背後の標高246メートル、字城山の尾根上にも城郭遺構らしきものが確認出来、黒田城の東裏手からハイキングコースが整備されている。 |