兵庫県姫路市本町 --西の丸から見る天守閣-- |
別名 | 白鷺城 |
交通 | JR山陽本線「姫路駅」から徒歩15分。 |
築城年代 | 1609年(慶長14) |
築城者 | 池田輝政 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 池田輝政 |
1333年(元弘3)播磨守護職赤松則村がこの地に砦を築き、その後1346年(正平1)次男貞範が城を構えた事に始まるという。その後被官小寺頼季が城主となり、以後代々小寺氏の居城となった。 1467年(応仁1)応仁の乱に際し、赤松氏を再興した赤松政則は、細川方として播磨に兵を挙げ、山名氏方の竹田城主太田垣氏を撃退すると、その功により播磨守護に任ぜられ、姫路城を本拠とする。その後1469年(文明1)政則が置塩城を築いて移ると、姫路城には小寺豊職が置かれた。 1519年(永正16)豊職の子政隆が御着城を築いて移ると、政隆の子則職が在城するが、1545年(天文14)則職も御着城に移ると、則職の家老黒田重隆が入城した。 1577年(天正5)織田信長の命を受けた羽柴秀吉による播磨征伐の際、重隆の孫である孝高(如水)は秀吉の片腕となり、1580年(天正8)秀吉は孝高の勧めにより、西国攻略の拠点として姫路城に入城すると、翌年3層の天守閣を完成させた。 1600年(慶長5)関ヶ原合戦後、徳川家康の娘婿である池田輝政が播磨国52万石を与えられて入城すると、姫路城は5層の天守を持つ大城郭へと改修された。1616年(元和2)輝政の跡を継いだ利隆が急死すると、その子光政は因幡国鳥取城へ移封となり、池田氏は3代17年で終わった。 代わって伊勢国桑名城から本多忠政が入城し、その後城主は目まぐるしく替わるが、1749年(寛延2)酒井忠恭が入城すると明治に至るまで酒井氏が続いた。 |
三の丸水堀 | 大手門跡 | 三の丸 |
天守閣・渡櫓 | 菱の門 | 西の丸から天守閣遠望 |
西の丸・化粧櫓 | 西の丸・渡櫓 | はの門 |
にの門へ続く通路 | 内側から見る隅櫓 | 西下から見る天守閣 |
姥が石 秀吉の築城の際、石集めに苦労して いたが、城下の老婆が石臼を寄付し 石垣に使用されたという。 |
水の二門 | 備前丸(池田輝政館) |
備前丸から見る天守閣 | との一門 置塩城の大手門といわれる |
との四門(搦手) |