経山城

経山城きょうやまじょう
岡山県総社市黒尾
Mapion

--南東から城址遠望--
別名 京山城
交通 JR吉備線「服部駅」からタクシー利用、又は徒歩50分以上。
服部駅はタクシーが停車していない為、駅前から呼ぶ必要が
あります。
築城年代 1532〜55年(天文年間)
築城者 大内義隆
形式 山城
主な城主 二階堂氏行・中島元行
1532〜55年(天文年間)大内義隆により築かれたとされる。
1543年(天文12)大内氏は10万余騎の軍勢を率いて、尼子氏の月山富田城を目指し、備中諸将もこれに従った為、備中内の諸城は手薄になっていた。この機に乗じて播磨白旗城主赤松晴政は浦上宗景・宇喜多興家両将を派遣して争奪を開始する。経山城には二階堂氏行の嫡男輝行及び一族郎党が籠城し、西の中島氏が籠もる小寺要害と連携して守りを固めていたが、この時将軍足利義晴から赤松晴政の元に三好長慶らの討伐の指示が届いた為、赤松勢は退却している。
その後経山城は毛利氏の所領となり、二階堂氏行・中島元行らが城代として置かれた。1571年(元亀2)尼子氏は1万余騎で経山城を囲み、城主中島元行に寝返るよう伝えたが、城側は応じず、小早川隆景に後詰めを要請して守りを固めた。攻めあぐねた尼子勢は城を遠巻きに兵糧攻めを行うが、ある夜、元行は寄せ手の陣に忍び込み、火を放つと、尼子勢は総崩れとなり佐井田城へ引き上げた。
1582年(天正10)高松城合戦後、宇喜多氏領となり、経山城は廃城になったものと考えられる。
砂川公園から鬼ノ城方面へ進むと、左手に経山城登山口標柱が立つ。小規模だが往時は石垣が多用されていたと思われ、崩れ落ちた石が散乱している。主郭は仕切り土塁で区画されていたようで、土塁にも石積みが見られる。南側は鉄塔が立ち、一部改変されているが、木々が伐採されており、眺望が素晴らしい。
城址標柱 石垣に使用された残石か 石垣
主郭 主郭・仕切り土塁 主郭石垣
南郭 掘切 南東から城址遠望

参考文献 「岡山の山城を歩く 吉備人出版」
        「広島・岡山の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2013年3月