神奈川県伊勢原市下糟屋 --丸山城址公園-- |
別名 | 糟屋城・糟屋左衛門尉有季居跡 |
交通 | 小田急線「伊勢原駅」から徒歩20分。 |
築城年代 | 鎌倉時代 |
築城者 | 糟屋氏 |
形式 | 平城 | 主な城主 | 糟屋左衛門尉有季・扇谷上杉氏? |
高部屋神社一帯は字丸山と称され、鎌倉時代、武蔵七党の一つ横山党の一族糟屋氏の館があったと伝えられる。 糟屋氏は平安末期、藤原左大臣冬嗣の5世の孫、如丘がこの地に相模守として下向して糟屋を姓とし太郎元方を名乗った事に始まる。 1180年(治承4)源頼朝が鎌倉に入ると、元方の子である有季はこれに従い、御家人として糟屋郷を支配した。 1203年(建仁3)比企能員の変の際、有季は正室が能員の娘であった事から比企氏に従うが、一族共に敗れ、自害した。有季没後、子である有久・有長兄弟らは上洛し、1221年(承久3)承久の乱の際、後鳥羽上皇方として幕府軍と戦い、討死したとされる。一方有近・久季は幕府方として戦功を立てたといわれるが、糟屋氏の系譜については諸説あり、不明な点も多い。 高部屋神社を中心とし、北は丸山城址公園、西は東海病院のある上ノ台地区、東は普済寺付近までの範囲が丸山城中心部と考えられ、更に外郭部の存在も推定される。発掘調査により見つかった遺物は鎌倉時代から室町時代前半にかけてと室町時代後半から戦国時代にかけての二時期があり、扇谷上杉氏居館であり、太田道灌暗殺の舞台ともなった糟屋館はこの地であったとも考えられている。付近には道灌再興という大慈寺や道灌墓所(首塚)がある。 |
丸山城址公園 | 南西土塁 | 北西土塁 |
西堀跡 | 西から見る城址公園 | 城址を通る246号線 |
高部屋神社 | 高部屋神社拝殿 | 糟屋氏一族のものとみられる石塔 太田道灌墓所敷地内 |