大阪府豊能郡能勢町地黄 --天王丸南堀切-- |
別名 | 地黄古城・天王丸 |
交通 | 能勢電鉄妙見線「妙見口駅」からバス「奥の院」下車。 |
築城年代 | 1028〜37年(長元年間) |
築城者 | 能勢頼国 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 能勢頼次 |
1028〜37年(長元年間)源頼光の子である頼国がこの地に移り、能勢氏を称して築いたとされる。以後500余年代々能勢氏本城として続き、銀・銅の掌握等により勢力を拡大した。 1579年(天正7)織田信長による丹波平定後、信長は中国攻めの足場として北摂津に進展し、山下城主塩川氏を通じて能勢氏に帰属を勧めた。しかし21代頼道は応じなかった為、翌年塩川氏に山下城に招かれ、謀殺された。そして信長を後盾とする塩川勢が丸山城に迫るのに対し、頼道弟である頼次は大土峠合戦で勝利するが、その後明智光秀の交渉に応じて随従した。 1582年(天正10)本能寺の変後、能勢頼次は明智光秀に従った為、丸山城は羽柴秀吉勢に攻められ落城した。丸山城を追われた頼次は諸国を転々としたと伝わるが、1586年(天正14)秀吉に旧領を安堵され、九州征伐に従軍したという記録も残る。この時対立していた山下城主塩川国満が頼次不在の丸山城を攻め落とすが、これに怒った秀吉は片桐且元・池田輝政・堀尾吉晴を将とする追討軍を山下城に差し向け、国満は切腹、塩川氏は没落したというが、頼次の動向については諸説あり、詳細は不明。 頼次退去後、能勢の地は高山右近をはじめ、数代を経て1588年(天正16)島津氏が治めた。 1599年(慶長4)頼次は徳川家康に拝謁して御小姓となり、1600年(慶長5)関ヶ原合戦で功を立て、旧領である能勢に1万石余で復帰した。そして1602年(慶長7)地黄城の築城を開始、この時丸山城の用材が使われたといい、1615年(元和1)完成、麓に在った市場も移された。 北から南に延びる尾根先端部、丸山に築かれている。南北に天王丸・本丸・二の丸・三の丸が一列に並び、斜面に帯曲輪・竪堀が設けられている。特に西側斜面の竪堀は麓近くまで下り、複雑な様相を成している。西に建つ清普寺は能勢氏菩提寺で能勢氏代々の墓所がある。 |
東から城址遠望 | 大手口に立つ石造九重塔 | 大手門跡 |
三の丸、奥が二の丸 | 東腰曲輪・土塁 | 二の丸西帯曲輪 |
本丸 | 本丸北曲輪 | 狼煙台跡 |
武者隠し | 本丸北曲輪・天王丸間堀切 | 西斜面竪堀 |
清普寺(能勢氏菩提寺) |
能勢頼次墓 | 近江の局墓(頼次3女・大奥老女) |