山下城

山下城やましたじょう
兵庫県川西市山下
Mapion

--本丸北二重堀切の一つ--
別名 龍尾城・獅子山ノ城・一庫城
交通 各線「山下駅」から登山口まで徒歩10分。
南麓、川西市郷土館西側、68号線に出る手前の首供養地蔵
横から登山道があります。
築城年代 1568年(永禄11)以前
築城者 塩川仲義・仲章または国満
形式 山城
主な城主 塩川政年・国満
山下城の築城年代については3説あり、970〜73年(天禄年間)源満仲の女婿である塩川仲義が多田新田城の支城として築城したとする説、南北朝時代、塩川仲章が築城したとする説、1579年(天正7)4月20日、塩川国満が織田信長から与えられたとする説である。山下城の城史について不明な点が多いが、多田御家人筆頭の塩川氏が築いたのは確かであり、現在見られる遺構は塩川国満により整備されたものと考えられ、「細川両家記」等にみえる「一庫城」も山下城を指すものと思われる。1541年(天文10)8月、細川晴元は三好政長・三好範長・波多野秀忠らに命じて細川高国の妹婿である塩川政年・国満父子が籠る「一庫城」を攻めるが、姻戚にあたる伊丹城主伊丹親興・三宅城主三宅国村に救援を要請し、また政長と対立していた木沢長政が晴元に背いて政年に加勢すると、晴元方は敗れた。範長は越水城に退き、政長と秀忠は丹波に逃れたとされる。
1568年(永禄11)織田信長が足利義昭を擁して入京し、摂津から三好三人衆を追うと、国満は降伏し、所領を安堵された。そして信長の石山本願寺攻めにも出兵したが、1578年(天正6)10月、荒木村重が信長に背き、有岡城に籠った時、国満も一時村重に従った。しかし高槻城主高山右近と茨木城主中川清秀が信長に降伏すると、国満も帰順した。12月8日から信長の有岡城攻めが開始されるが、同月11日、国満は古池田(池田城か)を守り、翌年4月30日、加茂岸に布陣して有岡城攻めに参加し、またこの年の暮れまで続くこの攻防戦の間、明智光秀に従い、丹波国八上城主波多野秀治攻めにも参加している。同年9月2日、村重が城を脱して尼崎城(大物城か)に入ると、同月12日、国満も子である長満と共に七松城の定番として尼崎城攻めを命じられている。次いで有岡城落城後の1580年(天正8)2月27日には花熊城攻めを命じられている。
1582年(天正10)本能寺の変後、国満は羽柴秀吉に属し、各地を転戦するが、1586年(天正14)長年対立していた丸山城主能勢頼次が秀吉の九州征伐に従軍し、不在の中、丸山城を攻め落とすと、これに怒った秀吉は片桐且元・池田輝政・堀尾吉晴を将とする追討軍を山下城に差し向けた。秀吉の許しを得る手立ての無い事を知った国満は山下城を開城し、切腹して果てると、国満の首は山下城外東大手口に葬られたという。これにより山下城は廃城となり、塩川氏は没落したといわれるが、この合戦の存在は疑問視もされている。
標高188メートル、古城山(山下山)に位置する。最高所の本丸から南、二方向に延びる尾根上にそれぞれ曲輪を配置し、居館跡とされる南山麓に近い位置にも階段状に曲輪が並んでいる。本丸は東側に土塁があり、北には大規模な二重堀切が残されている。また谷を挟んで北側、標高181メートル、向山(甘露寺山)にも城郭遺構が残り、両城はそれぞれ東へ尾根を登り詰めた標高242メートルの最高峰で結ばれている。現在見られる遺構から向山城は増設されたもので連携して防備していたと考えられている。
大手門付近にある首供養地蔵 東曲輪群に建つ愛宕神社 東曲輪下段
東曲輪上段 本丸 本丸に立つ城址碑
本丸東土塁 本丸北二重堀切 二重堀切北土橋

参考文献  「ひょうごの城 神戸新聞総合出版センター」
「戦国合戦史事典 新紀元社」
   「大阪・兵庫の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2019年12月