宮津城

宮津城みやづじょう
京都府宮津市鶴賀
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太鼓門地図

--太鼓門--
別名 鶴賀城
交通 各線「宮津駅」から徒歩5分。
築城年代 1580年(天正8)
築城者 細川藤孝(幽斎)
形式 平城
主な城主 細川藤孝(幽斎)・細川忠興・京極高知
1579年(天正7)織田信長の命を受けた細川藤孝(幽斎)・忠興父子及び明智光秀による丹波・丹後征討軍に攻められ、建部山城は落城、丹後国守護一色義道は自害し、その後弓木城に籠る一色義定(満信・義有・義俊)との講和が成立すると、翌年8月、藤孝・忠興父子は正式に丹後に入国した。勝竜寺城から八幡山城に移った藤孝は宮津城の築城と城下町の整備を開始し、普請には光秀の加勢もあったとされる。また田辺城の築城もこの頃行われたと考えられる。
1582年(天正10)本能寺の変の際、藤孝は光秀の要請を断り、剃髪して幽斎と号し、田辺城に隠居した。そして忠興の正室で光秀の娘である珠(ガラシャ)を与謝の山中に隠し、豊臣秀吉に恭順の意を表した。また変後、家督を継いだ忠興は2万石の大名として弓木城に余喘を保つ一色義定を宮津城内(一色稲荷付近)にて謀殺、更に宮津に攻め寄せた義定の叔父である吉原山城主一色義清を破り、これにより丹後国は統一された。
1600年(慶長5)関ヶ原合戦後、東軍に従った忠興は豊前国中津城に移り、代わって12万3千石で丹後に入国した京極高知は田辺城を居城とした。1622年(元和8)高知没後、丹後は宮津藩・田辺藩・峰山藩に三分され、宮津城には2男高広が入城した。この時宮津城は近世城郭として改修が行われたが、細川氏時代の縄張りがどれ程踏襲されたかは不明である。
1666年(寛文6)高国の時、改易となると、幕府直轄を経て永井・阿部・奥平・青山・本荘松平氏が続いて入城し、明治維新を迎えた。
市街地化により遺構はほとんど残されていないが、宮津小学校に太鼓門が正門として現存している。
大手橋 細川ガラシャ像 大手川・復元された城壁
一色稲荷社 一色義清自刃地碑 三の丸跡西部に立つ案内板
宮津城の石 二の丸跡東部に立つ案内板 Mapion
桜山天満宮境内
二の丸に在ったとされる石橋

参考文献 「現地案内板」
                        「京都・滋賀・福井の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2018年7月