弓木城

弓木城ゆみのきじょう
京都府与謝郡与謝野町弓木
Mapion

--本丸に立つ城址碑--
別名 稲富城・一色城
交通 京都丹後鉄道宮豊線「岩滝口駅」から徒歩40分。
築城年代 室町時代
築城者 稲富氏
形式 山城
主な城主 稲富祐直(直家)・一色義定
室町時代、丹後国守護一色氏に従う稲富氏により築かれたと考えられる。
2代目稲富直時は佐々木少輔次郎義国から砲術を学び、創意を加え、孫である4代目祐直(直家)は稲富流砲術を開いた人物として知られる。
1579年(天正7)織田信長の命を受けた細川藤孝(幽斎)・忠興父子及び明智光秀による丹波・丹後征討軍に攻められ、建部山城は落城、一色義道は自害した。この時祐直は一色義定(満信・義有・義俊)に弓木城を提供すると、自らも守りに就き、抵抗を続けるが、その後講和が成立した。
2万石の大名として弓木城を新たな本拠とした義定であったが、1582年(天正10)本能寺の変の際、明智光秀の要請に応じる姿勢を見せた為、変後、宮津城内で忠興に謀殺された。これに義定の叔父である吉原山城主一色義清は弓木城に入り、跡を継ぐと、宮津に攻め寄せるが敗れ、一色氏は滅亡した。その後弓木城が使われる事は無く、廃城となった。
祐直がいつ弓木城を去ったかは不明だが、その後主家を滅ぼした忠興に仕え、砲術の師範となった。1600年(慶長5)関ヶ原合戦の年、祐直は大坂の細川屋敷に在って忠興正室である細川ガラシャの警護を務めたが、石田三成の軍勢が屋敷を囲むと一人逃亡したとされる。その後松平忠吉・徳川家直に仕え、また幕府の鉄砲方として近江国国友村の鍛冶集団の組織に活躍した。
主要部は城山公園として整備されている。道を挟み、北側、岩滝小学校・あじさい苑付近も城域で北曲輪が在ったというが、遺構は残されていない。また東、西光寺裏山には出丸が設けられており、平場が残る。
東から城址遠望 東曲輪 本丸北下に建つ城山稲荷
堀切 本丸 南虎口
虎口の先は竪堀状となるが
後年つけられた参道という
東側の眺め 西光寺

参考文献 「近畿の城郭 戎光祥出版」
                「京都・滋賀・福井の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2018年7月