御幸塚城

御幸塚城みゆきづかじょう
石川県小松市今江町
Mapion

--城址碑--
別名 今江城・富樫泰高館・御幸塚御庵室跡
交通 JR北陸本線「粟津駅」から徒歩30分。
築城年代 1444〜49年(文安年間)か
築城者 富樫泰高
形式 平山城
主な城主 山崎長徳
1446年(文安3)富樫教家・泰高の兄弟が守護職を巡り争うと、翌年室町幕府は加賀を二分し、北二郡を教家の子成春に、南二郡を泰高に任せ、2人はそれぞれ半国の守護職となった。その後泰高は成春の子政親とも対立すると、1488年(長享2)一向一揆方総大将となって高尾城に政親を攻め、自害させた。御幸塚城は泰高がこの頃に設けた館に始まると考えられるが、確証は無い。
1576年(天正4)一揆方の内田(内山)四郎左衛門・林七介(七助)らがこの城から出陣し、織田信長の部将戸次広正が籠もる大聖寺城を攻めたという。この時広正は信長に援軍を求めたが、信長は広正に代えて佐久間盛政を大聖寺城に置いたとされる。そして盛政は徳山則秀と共に敷地天神山の砦を攻略し、次いで御幸塚城に迫ると、御幸塚城主内田・林両氏を内応させ、落城させたと伝わる。
1600年(慶長5)関ヶ原合戦の際、東軍に従う金沢城主前田利長は、加賀国内に在った西軍側勢力を押さえる為、御幸塚城に山崎長徳・奥村栄明・太田長知らを布陣させたという。
現在城址は今江小学校や住宅地となり、旧状は判然としない。小学校南の高台は城山公園となり、櫓台跡と思われる土壇に城址碑が立つ。
城山公園 城山公園から北側の眺め

参考文献  「新潟・富山・石川の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2014年4月