戦国時代、阿曽沼氏により築かれたとされる。阿曽沼氏の出自については諸説あるが、1189年(文治5)奥州征伐で活躍した阿曽沼広綱が遠野12郷を与えられると、1213〜19年(建保年間)その子親綱が遠野に入部し、横田城(松崎町)を築いたとされる。以後遠野は代々阿曽沼氏が支配し、1573〜92年(天正年間)広郷の時、この鍋倉山に新城を築いて本拠を移したといい、こちらも横田城と呼ばれていた。 1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原征伐の際、阿曽沼氏は参陣しなかったが、南部氏付庸として仕置きを免れた。しかし1600年(慶長5)関ヶ原合戦の年、広郷の跡を継いだ広長が南部利直に属して山形へ出陣の留守中、一族の鱒沢広勝らが謀反を起こし、遠野を占拠した。これは南部氏の謀略だったともいわれ、その後鎌倉時代より続いた阿曽沼氏は没落し、遠野の地は南部氏治下に入った。 こうして横田城には南部氏城代が置かれたが、治安の乱れが続いた為、1627年(寛永4)利直は一族の八戸領主南部直義に遠野転封を命じた。この時横田城は直義により改修され、鍋倉城と改称されると、明治に至るまで240余年、遠野南部氏が続く事となる。 現在城址は鍋倉公園として綺麗に整備されている。最高所の本丸を中心とし、南に二の丸、北東に三の丸が設けられ、北側には沢里・工藤氏の重臣屋敷跡がある。一部公園化により改変されている箇所もあるが、遺構は良く残されている。
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