埼玉県富士見市大字下南畑 --西から館址遠望-- |
別名 | 難波田城・城家 |
交通 | 東武東上線「鶴瀬駅」から徒歩40分。 |
築城年代 | 南北朝時代 |
築城者 | 難波田氏 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 難波田弾正憲重 |
難波田氏は武蔵七党の一つ村山党の中心であった金子小太郎高範を祖とし、鎌倉時代、承久の乱において小太郎高範が討死すると高範の子孫が難波田の地を与えられ、難波田氏を名乗った。 1351年(観応2)足利尊氏と弟直義が不和になると直義方に属していた難波田氏は尊氏方高麗経澄と争い敗れるが(羽根倉合戦)、後に尊氏と直義の和解により難波田氏は再び栄えたという。 戦国時代に入ると難波田弾正憲重は扇谷上杉氏に仕え、松山城を守り勇名をはせたが、東明寺合戦(川越夜戦)の際、東明寺の古井戸に落ちて亡くなり、子隼人正も討死したとされる。 その後難波田城は後北条氏家臣の上田周防守が居城したが、1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻めの際、豊臣方に攻略され廃城となった。 |
水堀・土塁 | 曲輪跡 | 水堀 |
水掘 | 復元された冠木門 | 館址碑 |