岩屋城

岩屋城いわやじょう
福岡県太宰府市大字観世音寺
Mapion
登山口地図

--本丸に立つ城址碑--
別名    
交通 西鉄天神大牟田線「都府楼前駅」から登山口まで徒歩30分。
築城年代 1532〜55年(天文年間)
築城者 高橋鑑種
形式 山城
主な城主 高橋紹運(吉弘鎮理)
1532〜55年(天文年間)大友氏家臣であった高橋鑑種が宝満山城の支城として築いた。鑑種は宝満山城を居城、岩屋城を支城として毛利氏に備えるが、大友義鎮(宗麟)に兄である一万田弾正親実を討たれると、鑑種は次第に宗麟と対立するようになり、1567年(永禄10)秋月種実と共に毛利氏方に転じた。更に筑紫広門が加わり、豊前・筑前のほとんどが反大友氏となった。
同11年これに対し宗麟は戸次鑑連(立花道雪)・臼杵鑑速・吉弘鑑理(高橋紹運の父)ら3万の軍勢を筑前に送って立花山城を落とし、翌12年には鑑種を破った。鑑種が毛利氏支配下の小倉城に入った為、1570年(元亀1)宗麟は吉弘鎮理(高橋紹運)に高橋の名跡を継がせ、宝満山城・岩屋城を委ねた。
1578年(天正6)11月、高城川合戦で宗麟を破り、1584年(天正12)沖田畷合戦で龍造寺隆信を破った島津氏は、1586年(天正14)筑前に侵入、5万の軍勢で高橋紹運が拠る岩屋城を包囲した。城兵は僅か763人の寡兵でありながら再三の降伏勧告を拒絶し、約半月にわたり攻防を繰り広げ、紹運以下763人は討死、勝利した島津勢も3千人もの死者を出した。
岩屋城落城後、次男高橋統増が拠っていた宝満山城は開城し、島津勢は更に北上、立花山城を攻めるが豊臣秀吉勢の九州上陸の報に退却した。島津氏は岩屋城での戦いで時間を費やし水際で豊臣勢を迎え撃つ目論みが崩れ、九州制圧の大望は潰える事となった。
二の丸 二の丸・高橋紹運墓所 二の丸・本丸間を通る道路
本丸西堀切 本丸西二重堀切 本丸
本丸土塁 本丸東下腰曲輪 本丸から東、宝満山方面

参考文献  「福岡・熊本・鹿児島の城郭 新人物往来社」 
訪城回数 2
2008年1月
2013年1月