1560年(永禄3)8月 浅井長政×六角義賢 --案内板-- |
交通 | JR東海道本線「稲枝駅」から徒歩15分。 |
1559年(永禄2)観音寺城主六角義賢(承禎)に従う肥田城主高野瀬秀隆は小谷城主浅井氏に通じた為、肥田城は義賢に攻められた。肥田城の守りが堅い事を知った義賢は城の下手一帯に堤を築き、宇曽川や愛知川の水を入れて水攻めを計った。しかし堤防が決壊した為、失敗に終わり、撤退する事となる。「肥田城の水攻め」 1560年(永禄3)8月、義賢は再び肥田城を攻めるが、秀隆から知らせを聞いた浅井長政(賢政)は援軍として出陣し、野良田表で両者は対峙した。合戦は浅井方百々内蔵助と六角方蒲生右兵衛太夫によって火蓋が切って落とされる。当初は互角の戦いを繰り広げたが、やがて六角方の側面攻撃により内蔵助は討死、これを知った長政は自ら先頭に立ち、総攻撃を命じた。野良田一帯が大戦場になるが、その後六角方は総崩れとなり退却した。 「肥田城の水攻め」と「野良田表合戦」の2度の勝利により長政は犬上・愛知2郡を手中に収め、湖東平野に大きく勢力を伸ばした。 |