小谷城

小谷城おだにじょう
滋賀県長浜市湖北町伊部
Mapion

--大広間--
別名  
交通 北陸自動車道「長浜IC」から車で15分。
築城年代 1525年(大永5)以前
築城者 浅井亮政
形式 山城
主な城主 浅井長政
山麓に北国脇往還があり、南に中山道、西に越前に向かう北国街道、背後の伊吹山系には越前や美濃への間道が張り巡らされている要衝に位置する浅井氏3代居城。
浅井氏の出自については諸説あり、鎌倉・室町時代の動向も不明だが、いつの頃か浅井郡丁野付近に拠り、浅井亮政の時、上平寺を拠点とする守護大名京極高清の被官であった。小谷城の築城年代もはっきりしないが、「長享年後畿内兵乱記」によると、1525年(大永5)小谷城は既に築城されており、当時の小谷城は大嶽にあったとされる。
1523年(大永3)3月、京極家の家督争いが起こり、京極高清は次男高吉に跡を継がせようとするが、浅井亮政は浅見貞則と共に長男高延を支持し、京極氏家臣団で最も勢力を誇っていた上坂城主上坂信光を失脚させると、京極高清・高吉父子を尾張国に追放し、後に貞則も追った。その後亮政は高延とも対立するが、後に和睦が成立した高清・高延父子を小谷城(京極丸)に饗応し、江北の実権を握った。
亮政の跡を継いだ久政の時、観音寺城主六角義賢の勢力に押され、従属するようになるが、1560年(永禄3)元服した長政(賢政)は野良田合戦で六角氏に勝利し、父久政から家督を相続すると、戦国大名としての地位を確立していった。
1564年(永禄7)上洛を目指す織田信長は妹お市を長政に嫁がせ、浅井氏の同盟国である越前国朝倉氏への軍事行動の際には了解を得るとの約束を交わし、同盟を結んだ。しかし1570年(元亀1)4月、信長は上洛要請を無視する朝倉氏攻略を開始し、越前国金ヶ崎城を攻め落とした。それに対し浅井氏は朝倉氏を救う為、同盟を破棄して兵を出し、両者は対立するようになった。6月28日、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍は姉川で争い、浅井・朝倉連合軍は敗れる。
1573年(天正1)8月12日、信長は小谷城援軍の朝倉勢が籠もる大嶽城を攻撃し、敗走する朝倉義景を刀根坂に追撃すると、その勢いで朝倉氏本拠である越前国一乗谷を攻め、朝倉氏は滅亡した。
26日信長は再び小谷城への攻撃を開始し、27日羽柴秀吉が京極丸を落として久政を討ち、9月1日に本丸を攻め、浅井氏も滅亡した。
浅井氏旧領は羽柴秀吉に与えられ、長浜城の築城と共に小谷城は廃城となった。
出丸付近からの眺め 金吾丸 天文2年、六角氏に内通した今井
左衛門尉秀信の首を晒したとされる
首据石
赤尾屋敷
浅井長政はここで自刃したとされる
桜馬場 黒金門跡
本丸石垣 本丸・中丸間大堀切 中丸石垣
京極丸
浅井氏が主家京極氏を饗応する為
整備した曲輪とされる
山王丸東石垣 山王丸
山王丸から大嶽城方面 土佐屋敷跡 三田村屋敷跡背後に残る石垣
御屋敷跡
浅井長政屋敷跡
山城屋敷跡 南から城址遠望

参考文献 「現地案内板」
                        「京都・滋賀・福井の城郭 新人物往来社」
                   「近江城郭探訪 サンライズ出版」
訪城回数 1
2006年11月