1560年(永禄3) 織田信長×今川義元 --古戦場伝説地-- |
交通 | 名鉄「中京競馬場前駅」から徒歩5分。(豊明市 古戦場伝説地) 名鉄「中京競馬場前駅」から徒歩20分。(名古屋市 古戦場公園) |
1560年(永禄3)5月12日、今川義元は駿府城を発ち、尾張へ向け東海道を西に向う。 18日沓掛城に入城した義元は諸将を集め軍議を開いた。 18日夜、松平元康(家康)は大高城への兵糧入れを行い、19日未明、織田信長が大高城封鎖の為に築いた丸根砦に攻撃を開始する。元康の丸根砦攻撃と同時に朝比奈泰朝・井伊直盛らも丸根砦北方の鷲津砦に攻撃を開始した。 19日明け方、今川勢の鷲津・丸根両砦攻撃開始の報を受けた織田信長は出陣し、午前8時頃、熱田に到着、熱田神宮に戦勝祈願を行い、「信長公記」によれば信長はここで鷲津・丸根両砦の方角に煙を確認したという。 午前10時頃、信長が善照寺砦に着陣した頃、鷲津・丸根両砦は落ち、佐久間大学・織田玄蕃らは討死した。 正午桶狭間に到着した義元は鷲津・丸根両砦陥落の報を受け、この地で兵を休めた。同じく正午頃、中島砦に着陣した信長は午後1時頃、桶狭間一帯に降り出した急雨の中、義元本隊への攻撃を開始した。両軍入り乱れての激しい攻防の中、織田方の服部小平太が義元に槍をつけ、毛利新介が義元の首を取り今川勢は敗走、織田方が勝利を収めた。 戦後、元康は岡崎城に入城して独立すると、その後家康と名を改め、信長との盟約の下に三河平定を果たした。 |
七石表(1号碑) 1771年(明和8)に立てられた今川義元 討死の場所を示す最も古い碑 |
今川義元墓 | 高徳院・今川義元陣跡 |
桶狭間古戦場公園 |
長福寺境内・義元首検証の跡 |
今川義元水汲みの泉 |