岡崎城

岡崎城おかざきじょう
愛知県岡崎市康生町
Mapion

--模擬大手門--
別名 龍城
交通 名鉄名古屋本線「東岡崎駅」から徒歩15分。
築城年代 1452〜57年(享徳・康正年間)
築城者 西郷稠頼
形式 平山城
主な城主 西郷氏・岡崎松平氏・松平清康・松平広忠・徳川家康
1452〜57年(享徳・康正年間)三河守護職仁木氏の守護代であった明大寺城主西郷弾正左衛門稠頼が築いた砦に始まるといわれる。
1471年(文明3)安祥城を攻略した岩津城主松平氏3代信光は続いて翌年頃、岡崎城に侵攻し、西郷頼嗣を攻略、頼嗣は信光5男である光重(岡崎松平家初代)を娘婿に迎えると大草に隠退した。
その後岡崎松平氏を継いだ3代西郷信貞(光重の子または西郷頼嗣の子とも)は宗家である安祥城主松平氏と対立するようになる。1524年(大永4)5月、松平氏7代清康は風雨を衝いた夜襲により信貞の城である山中城を攻め落とすと信貞も頼嗣と同じく大草に隠退し、岡崎城は松平氏宗家の本拠となる。そして1530年(享禄3)までに清康は三河国を平定した。
1535年(天文4)勢いに乗じ、尾張国に進出し、守山に布陣した清康が誤って家臣阿部正豊(弥七郎)に討たれる事件が起こると一族である松平信定が実権を握るようになり、清康の子広忠は岡崎城を追われ、伊勢国に逃れる。1537年(天文6)広忠は駿河国今川義元の支援を受け、岡崎城に復帰するが、以後松平領は強大な勢力を持つ今川家の保護国的な扱いとなる。1547年(天文16)広忠は嫡男竹千代(後の松平元康・徳川家康)を今川家へ人質に出すが、田原城主戸田康光に奪われ、織田信秀の下へ送られてしまう。
1549年(天文18)広忠が家臣岩松八弥に暗殺されると、今川勢は岡崎城に入り、動揺する松平家臣団を押さえた。同年今川方太原雪斎は織田方の三河における最前線となっていた安祥城を攻略し、城主織田信広を捕らえると、竹千代との人質交換を行い、駿府へ連れて帰った。
1560年(永禄3)桶狭間合戦の際、丸根砦を落とした元康は大高城に入城するが、義元が討死すると、岡崎城に近い大樹寺に兵を収め、岡崎城に居た今川軍撤退後、入城して独立を果たした。
その後織田信長との盟約の下に三河平定を成す。
1570年(元亀1)家康が浜松城に移ると、長男信康が城主となるが、1579年(天正7)信康が二俣城で自刃した後は石川数正、本多重次等が城代となった。
1590年(天正18)徳川家康が関東に入国すると、豊臣氏家臣田中吉政が入城し、その後本多、水野、松平、次いで再び本多氏が入城し、明治まで続いた。
南側を流れる乙川 水堀 坂谷門跡
家康のえな(胞衣)を埋めたえな塚 家康産湯井戸 本丸虎口
復元天守 本丸北虎口脇青海堀 二の丸に建つ能楽堂

参考文献 「現地案内板」
                       「静岡・愛知・岐阜の城郭 人物往来社」
訪城回数 2
2006年5月
2008年12月