大谷本願寺

大谷本願寺おおたにほんがんじ
京都府京都市東山区林下町
Mapion

--崇泰院--
別名         
交通 京都市営地下鉄東西線「東山駅」から徒歩10分。
築城年代 1321年(元亨1)
築城者 覚如
形式 寺院
主な城主 蓮如
1262年(弘長2)浄土真宗の開祖である親鸞が没すると大谷の地に埋葬され、その後1272年(文永9)親鸞の末娘覚信尼により改葬され、大谷廟堂が建立された。この廟堂は内紛で破壊されるが、1312年(正和1)覚信尼の孫である3代覚如が再建、当初は専修寺と号し、1321年(元亨1)頃、本願寺と改称された。
1415年(応永22)本願寺中興の祖といわれる8代蓮如はこの地で生まれた。当時本願寺は浄土真宗の中では弱小の門流で、門徒の訪れもほとんど無い程寂れていたとされるが、1457年(長禄1)法主となった蓮如は積極的な布教活動を行った。やがて本願寺の拡大に伴い、比叡山延暦寺との対立が起きるようになり、1465年(寛正6)1月9日、大谷本願寺は延暦寺衆徒に破壊される。堅田衆らに護られ、近江国に逃れた蓮如はその後北国・東国を廻って三河国に入り、三河門徒の拠点である本宗寺を土呂に建立すると、再び京へ帰った。
1471年(文明3)越前国吉崎に進出し、吉崎御坊を建設した。そして大谷本願寺が破却されてから13年が経った1478年(文明10)新たな拠点建設に着手する為、山科に移り、山科本願寺を建立すると、1496年(明応5)堺布教の通路にあたる大坂の地に坊舎(後の石山本願寺)を建てた。
1499年(明応8)3月、蓮如は山科本願寺において85歳で没した。
門前に蓮如上人誕生地碑が立ち、境内に蓮如上人産湯井戸が残されている。

参考文献  「ビジュアル日本の歴史77 デアゴスティーニジャパン」
訪城回数 1
2017年4月