石山本願寺

石山本願寺いしやまほんがんじ
大阪府大阪市中央区大阪城
Mapion

--石山本願寺推定地碑--
別名 石山本願寺城・大坂城
交通 JR大阪環状線「大阪城公園駅」。
築城年代 1532年(天文1)
築城者 証如
形式 平城
主な城主 顕如
本願寺は初め洛中大谷にあったが、1465年(寛正6)比叡山宗徒に破壊されると本願寺8代蓮如は越前吉崎に移り、その後1478年(文明10)山科本願寺を建立した。そして1496年(明応5)堺布教の通路にあたるこの大坂の地に坊舎を建てると、土居と堀に囲まれた「六町の構」といわれる寺内町が形成された。
1532年(天文1)10代証如の時、山科本願寺が細川晴元・六角定頼・法華一揆勢に攻められ炎上すると、本願寺はこの地に移され、その後西日本・北陸の一向宗徒の勢力増大を背景に戦国大名に匹敵する勢力を誇った。
1568年(永禄11)11代顕如の時、織田信長が足利義昭を奉じ入京すると、信長と本願寺との対立は深まり、1570年(元亀1)信長からの石山退去要求を拒否した顕如は全国の門徒衆に檄を飛ばし、10年に及ぶ石山合戦が始まる。
一時的な和議を重ねつつ一進一退を繰り返したが、1576年(天正4)信長の本願寺包囲攻撃をもって一挙に激化した。信長が大坂周囲の要衝10ヶ所に付城を構えたのに対し、顕如は高津・丸山・ひろ芝・正山・森口表・大海・飯満・中間村・鴫野・野江・楼岸・勝曼・木津・難波等、51か所に出城を構え、守将を置いた。
1580年(天正8)3月5日、天皇の仲介もあり、信長との和睦が成立すると、4月9日顕如は鷺森へ移った。この時和睦に反対する顕如の子教如は雑賀衆と共に籠城を続けたが、8月2日ようやく石山の地を退去した。その直後本願寺は焼失したという。
その後本願寺は貝塚天満を経て、1591年(天正19)京都へ移転した。
その後本願寺は内部抗争により東本願寺と西本願寺に分立し、現在も存続している。
石山本願寺の遺構は今だ確認されていないが、大坂城二の丸付近にあったのではないかと推定されている。
石山本願寺供養塔 蓮如上人袈裟懸の松の根 石山本願寺復元模型
大阪歴史博物館

参考文献 「織田信長合戦全録 中公新書」
         「大阪・兵庫の城郭 新人物往来社」  
訪城回数 2
2008年1月
2009年5月