宮崎県宮崎市佐土原町上田島 --麓に建つ歴史資料館・鶴松館-- |
別名 | 鶴松城・田島之城 |
交通 | JR日豊本線「佐土原駅」からバス「東春田」下車。 |
築城年代 | 1334〜38年(建武年間) |
築城者 | 田島氏 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 伊東義祐 |
1190年(建久1)工藤左衛門尉祐経は、鎌倉幕府から日向国地頭職に任ぜられるが、その後も伊東氏は伊豆国に住し、日向国には一族から代官を置いて治めていた。1252年(建長4)頃、伊東祐時は田島庄(佐土原)の代官として、4男祐明を送り、この祐明は田島と改称した。佐土原城はこの田島氏により築城されたとされ、「旧事集書」によると、田島休祐により築城されたという。 1335年(建武2)伊東祐時から6代祐持の頃、足利尊氏に従い戦功を認められ、都於郡300町を賜ると、一族を率いて都於郡に下向して来た。先に田島へ来て勢力のあった田島伊東氏も休祐の代、都於郡伊東氏本家へ統合され滅びた。 伊東氏は都於郡城を本城として日向一円を掌握していく事となるが、しばしば火災に見舞われ、特に1504年(永正1)には酷く延焼し、伊東氏はこの佐土原城や宮崎城に居城する事が多かったという。特に伊東氏最盛期を築き上げた10代義祐は、初めから佐土原城を本拠としていたといい、この時佐土原城は大規模な修築がされ、京都を模した町づくりも行われ、城下は大いに栄えたといわれる。 1572年(元亀3)木崎原合戦で島津氏に大敗した伊東氏は衰退の一途を辿り、1577年(天正5)薩摩・大隈を平定した島津氏が日向に侵攻すると、義祐はこれを防ぎきれず、孫義賢・祐兵らを伴い僅かな人数で、義賢の母が大友宗麟の姪である関係を頼って豊後に落ち延びた。 佐土原城には島津義久の弟家久が入城し、1587年(天正15)豊臣秀吉による九州征伐後も、家久が城主となったが、突如急死し、その子豊久が城主となる。 1600年(慶長5)関ヶ原合戦に際し、豊久は島津義弘と共に西軍として参加するが、殿軍を引き受け討死した。城主を失った佐土原は幕府領となるが、1603年(慶長8)徳川家康から島津貴久の弟忠将の子以久が佐土原3万石の藩主に任ぜられ、以後代々島津氏(佐土原島津)が治めた。2代忠興の時、山上の城は廃され、山下(現在の鶴松館の地)に居館・藩庁が移される。1870年(明治3)10代忠寛の時、藩庁が広瀬に移るに伴って佐土原城は廃城となった。 発掘により金箔鯱瓦や日本最南端といわれる天守台が発見されている。 |
御厩役所跡から城址遠望 | 麓に建つ歴史資料館・鶴松館 | 堀切 |
南の城跡虎口 | 南の城跡 | 内側から見る本丸枡形虎口 |
本丸 | 本丸天守台跡 日本最南端の天守台の 発見といわれる |
本丸天守台石垣 |