1572年(元亀3) 島津義弘×伊東祐安 --古戦場碑-- |
交通 | JR吉都線「えびの駅」から徒歩20分。 |
戦国時代、薩摩・大隈・日向・肥後の境目に接する要所、日向真幸院(現えびの市)を巡り、薩摩島津氏と佐土原城主伊東義祐は対立する。真幸院を領していた三山城主北原又太郎兼守は伊東氏と結び、義祐の女を妻としていたが、1561年(永禄4)兼守が病死すると、義祐は三山城を奪い、米良筑後守を城主に置いて真幸院東半分を接収する。 1564年(永禄7)飯野城に入城し、真幸院西半分を領した島津義弘は、1567年(永禄10)10月、三山城を攻める。城内の牛馬2百頭が焼き殺され、堀が死体で埋まる程の激戦になったが、義弘が手傷を負い、また須木からの援軍もあった為退却した。 1572年(元亀3)5月3日夜、今度は伊東加賀守(祐安)・伊東新次郎(祐信)・伊東又次郎・伊東修理進ら率いる伊東勢3千が三山城を出発し、義弘が拠る飯野城へ向かうと、始めに別働を派遣し、西方の加久藤城を攻めた。加久藤城には義弘夫人広瀬氏・老臣川上三河守忠智と僅か数十の兵が詰めていただけであったが、搦手の鎌柱口という本丸に通じる小経から攻める寄手に、ここに住む樺山浄慶という山伏が、父子3人で斬って出たという。道は狭く夜だった事もあり、伊東勢は木崎原に退き、夜明けを待ち、鳥越城に布陣した後続軍と合流した。 この地で伊東勢は島津勢の劣勢を侮り、暑さの為、川で行水していたが、この隙に飯野城を僅か3百余りの兵を率いて出陣した義弘に攻められる。更に吉田・馬関田・吉松及び北薩各地から馳せ参じた島津方に包囲され、伊東軍は大敗を喫した。伊東方は名のある武者だけで160余人が討死し、島津方は挙げた首級は500余もあったという。 1577年(天正5)薩摩・大隈を平定した島津氏は日向に侵攻した。木崎原で島津氏に大敗を喫し、衰退の一途を辿る伊東義祐はこれを防ぎきれず、孫義賢・祐兵らを伴い僅かな人数で、義賢の母が大友宗麟の姪である関係を頼って豊後に落ち延びた。 |
古戦場一帯 | 島津義弘歌碑 | 三角田 義弘が伊東新次郎(祐信)を槍で 突き伏せ、また敵中に進みすぎた 義弘を退かせる為、島津方六重臣が 討死した場所 |