堺御所

堺御所さかいごしょ
大阪府堺市堺区宿院町
Mapion

--顕本寺--
別名      
交通 阪堺電気軌道阪堺線「宿院駅」から徒歩5分。
築城年代 1527年(大永7)
築城者 細川晴元・三好元長
形式 屋敷
主な城主 足利義維・三好元長
1507年(永正4)守護細川政元没後、3人の養子、澄之・澄元・高国が家督を巡って対立し、「永正の錯乱」と呼ばれる抗争が続いた。
1520年(永正17)等持院合戦で澄元を破った高国は12代将軍に足利義晴を迎え、室町幕府の実権を握るが、1527年(大永7)澄元の子晴元を擁する三好勢に桂河原合戦に敗れ、近江へ逃れた。この後晴元は被官三好元長と共に、義晴の弟義維を擁して阿波から堺に上陸すると堺に幕府を樹立、顕本寺を拠点とし、義維は四条道場と呼ばれた引接寺を御座所とした。
1531年(享禄4)大物合戦で高国を破った晴元・元長はやがて対立するようになる。足利義晴と和睦した晴元は本願寺と結ぶと、1532年(享禄5)6月20日、堺・顕本寺は10万といわれる一向一揆衆に包囲された。元長は自刃し、義維は拘束され、5年余続いた堺幕府は崩壊した。その後義維は阿波平島に迎えられ、平島公方として続いた。またこの時助命された元長の嫡男千熊丸(後の三好長慶)は1561年(永禄4)晴元を破り、普門寺に幽閉している。
当時の顕本寺は開口神社に近い甲斐町山ノ口に在ったが、1615年(慶長20)大坂夏の陣で焼失した後、現在地に再建された。開口神社境内には三好元長戦死跡碑が立つ。
三好元長戦死跡碑 顕本寺に立つ案内板 引接寺跡(近世)

参考文献 「大阪府中世城館事典 戎光祥出版」
「三好長慶 宮帯出版社」
   「戦国合戦史事典 新紀元社」
訪城回数 1
2017年1月