大物古戦場

大物古戦場
兵庫県尼崎市東大物町1丁目

1531年(享禄4)
細川高国・浦上村宗×三好元長・赤松晴政
Mapion

--大物崩れ戦跡碑--
交通 各線「大物駅」から徒歩5分。
1507年(永正4)守護細川政元没後、3人の養子、澄之・澄元・高国が家督をめぐって対立し、「永正の錯乱」と呼ばれる抗争が続いた。
1520年(永正17)等持院合戦で澄元を破った高国は12代将軍に足利義晴を迎え、室町幕府の実権を握るが、1527年(大永7)澄元の子晴元を擁する三好勢に桂河原合戦に敗れ、近江へ逃れた。この後晴元は被官三好元長と共に、義晴の弟義維を擁して阿波から堺に上陸すると堺・顕本寺を拠点とし、幕府を樹立した。
1531年(享禄4)柳本賢治と対立し、阿波に逼塞していた元長が晴元支援の為、堺に再上陸すると、高国・浦上村宗軍と中嶋・住吉で対峙した。
6月4日、神呪寺に布陣していた高国方の赤松政村(晴政)は父義村を浦上村宗に暗殺されており、復讐の為、これを機に突如元長方に寝返った。この為高国勢は総崩れとなり、高国は尼崎城(大物城か)へ逃れるが、激しい追撃を受けて捕縛されると、広徳寺で自刃させられた。
高国の死後、内部抗争が起き、元長は足利義晴と和睦した晴元と新たに対立するようになる。1532年(享禄5)6月、晴元と結んだ一向一揆勢に攻められ、元長は自刃、大物合戦の僅か1年後の事であった。この時助命された元長の嫡男千熊丸(後の三好長慶)は後に勢力を伸ばし、1561年(永禄4)晴元を普門寺に幽閉している。

参考文献  「戦国合戦史事典 新紀元社」
      「歴史群像シリーズ 学研」
2010年10月