真田昌幸屋敷

真田昌幸屋敷さなだまさゆきやしき
和歌山県伊都郡九度山町九度山
Mapion

--善名称院--
別名 真田庵
交通 南海高野線「九度山駅」から徒歩15分。
築城年代 1600年(慶長5)
築城者 真田昌幸
形式 屋敷
主な城主 真田昌幸
1600年(慶長5)関ヶ原合戦の際、次男信繁と共に西軍に通じた真田昌幸は信濃国上田城に拠り、徳川秀忠率いる3万8000の大軍の西上を阻止。秀忠は関ヶ原本戦に間に合わなかったが、合戦は東軍が勝利し、戦後、昌幸・信繁父子は高野山へ配流となった。
同年12月13日、上田を後にした真田父子は池田長門守ら僅かな家臣を連れ、高野山頂の寺内町に建つ真田家縁の蓮華定院に身を置くが、間も無く麓の九度山に庵を結び、この地で蟄居生活を送る。
1611年(慶長16)6月4日、昌幸はこの地で再起を願いながら66歳で没した。
1614年(慶長19)九度山を脱出した信繁は大坂城に入城し、徳川勢を相手に奮戦した。
1741年(寛保1)大安上人により屋敷跡に善名称院が創建され、現在に至る。
境内には真田氏墓碑や真田地主大権現、雷封じの井等があり、真田宝物資料館も併設されている。また東に建つ遍照寺も真田氏屋敷跡と伝わっている。
善名称院 山門 雷封じの井
信繁が真田屋敷に落ちた雷を井戸に
封じ、里人の難を救ったと伝わる
真田地主大権現 真田昌幸墓碑 家臣一族墓碑
遍照寺 遍照寺境内 真田の抜け穴(真田古墳)

参考文献 「現地案内板」
                          「三重・奈良・和歌山の城郭 新人物往来社」   
訪城回数 1
2018年7月