上田城

上田城うえだじょう
長野県上田市二の丸
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--東虎口櫓門・南櫓--
別名 伊勢崎城・尼ヶ淵城・真田城・松尾城
交通 長野新幹線・しなの鉄道「上田駅」より徒歩10分。
築城年代 1583年(天正11)
築城者 真田昌幸
形式 平城
主な城主 真田昌幸・真田信之・仙石氏・松平氏
この地には北国街道の抑えとして、小泉氏の尼ヶ淵城が在ったが、当時は廃城となっていた。1583年(天正11)徳川家康の支援を受けた真田昌幸はこの城を取り立てて築城を開始し、城域を東に拡大した。
1584年(天正12)小牧長久手合戦の際、家康は背後を固める必要から後北条氏と和議を結んだが、後北条氏は和議の条件として真田の上野国沼田領を要求する。1585年(天正13)沼田の譲渡を拒絶した昌幸が上杉景勝と結ぶと家康は真田征伐に出兵、同年8月2日鳥居元忠・大久保忠世ら率いる7千の兵は国分寺付近に押し寄せ、上田城に迫った。これに対し真田勢は昌幸の子である信之(信幸)が城下に出て徳川勢と小競り合いを繰り返しながら巧みに上田城内におびき寄せた後、反撃に転じ、更に昌幸の兵も攻めかかると徳川勢は混乱して敗走、追撃を受けた徳川勢は増水した神川に追い落とされ、多数の溺死者を出したといわれる。翌3日、八重原付近に兵をまとめた徳川勢は矛先を変え、支城である丸子城を攻略しようとするが、昌幸は手白塚に出てこれを牽制、以後両者は20日間程対陣し、多少の小競り合いが在ったが、24日になり徳川軍は撤退した(丸子表の戦い)。「第一次上田合戦
1600年(慶長5)関ヶ原合戦の年、西軍についた昌幸は上田城に籠城し、徳川秀忠率いる3万8000の大軍の西上を阻止。秀忠は関ヶ原本戦に間に合わず、本戦に参加できなかったが、合戦は東軍が勝利、昌幸・信繁父子は高野山へ追放されると、上田城は破却された。「第二次上田合戦
戦後東軍に従った信之は沼田を含む真田旧領9万5千石を領し、1616年(元和2)上野国沼田から上田に移ると上田藩主館に居住した。
1622年(元和8)信之が松代城へ移封となると、代わって小諸城から仙石忠政が入城した。
1706年(宝永3)政明が但馬国出石城へ移った後、松平忠徳が入れ替わりで入城すると、明治まで松平氏が7代続いた。
二の丸東堀跡 本丸東水堀 東虎口櫓門
真田石 真田神社 真田井戸
西櫓 南側の眺め 本丸
本丸西土塁 本丸水堀北東部
鬼門除けの為に隅を欠いている
二の丸北に建つ招魂社
西虎口門跡・西櫓 二の丸・小泉曲輪間堀跡 小泉曲輪
尼ヶ淵の崖 尼ヶ淵から見る西櫓 南櫓

参考文献 「現地案内板」
                    「長野・山梨の城郭 新人物往来社」
訪城回数 4
2006年7・11月
2008年3月
2024年4月