1281年(弘安4) 少弐経資・資時×元軍 --瀬戸浦古戦場碑-- |
交通 | 「芦辺港」からバス「壱岐神社前」下車。 |
1274年(文永11)文永の役後、執権北条時宗は再度の元襲来に備え、九州沿岸に防塁を築き、対馬・壱岐には守備兵を配置して防衛体制を整えており、壱岐には鎮西奉行少弐経資が子である資時を守護代として防衛に当たらせていた。 1281年(弘安4)再び日本へ襲来した元軍の主力である東路軍は壱岐を経由して門司・博多方面に侵入するが撃退された為、一旦壱岐に後退し、江南軍との合流を図る。これに日本軍は瀬戸浦に押し寄せ合戦が行われた。合戦は主に港の内外を中心とする海戦であったが、瀬戸浦の両岸や周辺の陸地でも繰り広げられ、また西側に居館である船匿城があり、瀬戸浦一帯が少弐氏私領であった事からその攻防は激しいものとなった。この合戦により日本軍は東路軍を壱岐から平戸へ追う事に成功するが、若干19歳の資時をはじめ多くの戦死者を出した。 |
少弐の千人塚 |
引き揚げられた碇石 | 少弐資時像 |