兵庫県加古川市志方町志方町 --観音寺に立つ城址標柱-- |
別名 | 観音寺城・船原城・市易城 |
交通 | JR山陽本線「宝殿駅」からバス「志方西口」下車。 |
築城年代 | 1492年(明応1) |
築城者 | 櫛橋則伊 |
形式 | 丘城 |
主な城主 | 櫛橋氏 |
櫛橋氏代々の居城。櫛橋氏は藤原氏後裔で伊朝を祖とし、代々赤松氏に仕えたが、1441年(嘉吉1)嘉吉の乱で赤松家が滅びると櫛橋氏もそれに殉じた。しかし1467年(応仁1)赤松政則が播磨を回復すると、当時僧となっていた伊朝から5代の則伊は召し出され還俗した。そして政則家臣として活躍、1481年(文明13)天神山城を居城とし、次いで1492年(明応1)この地に志方城を築いて移ったとされる。 その後伊家・伊定・政伊と4代続き、1578年(天正6)三木城主別所長治に呼応し、支城の役割を担っていた志方城は羽柴秀吉に攻められ落城した。 観音寺一帯が本丸とされ、その北側志方小学校敷地が二の丸とされる。本丸は観音寺建立の際、改変されているようだが、志方小学校との間に僅かに土塁が残されている。また黒田孝高の妻で後の黒田長政の母である櫛橋伊定の娘光(てる)ゆかりの地として整備されている。 |
本丸南水堀跡 | 本丸(観音寺)に建つ櫛橋氏累代墓 | 東から城址遠望 |