兵庫県三木市上の丸町 --本丸に立つ別所長治像-- |
別名 | 釜山城・別所城 |
交通 | 神戸電鉄粟生線「三木上の丸駅」から徒歩5分。 |
築城年代 | 1492年(明応1)頃 |
築城者 | 別所則治 |
形式 | 丘城 |
主な城主 | 別所長治 |
1441年(嘉吉1)嘉吉の乱で滅亡した赤松家再興を目指す赤松政則に従い、活躍した別所則治が1492年(明応1)頃、築いたとされるがそれ以前、1160年(永暦1)東方の霧ヶ峰(君が峰町)に既に築かれており、則治の頃にこの地に移されたという説もある。 1538〜39年(天文7〜8)尼子晴久に、1544年(天文23)には三好長逸や有馬氏等、三木城は再三にわたって攻められており、その都度城は拡張され、東播八郡太守の本城に相応しい堅城となった。 1578年(天正6)別所長治は誼を通じていた織田信長から突如毛利氏に転じて背いた為、三木城は羽柴秀吉率いる軍勢に包囲された。秀吉は北東の平井山に本陣を置くと、多くの付城を築いて持久戦に持ち込み、野口城・神吉城・志方城等の支城を次々と攻略、三木城を孤立無援として兵糧攻めを行った。この兵糧攻めで三木城に籠もる城兵は飢えに苦しみ、壁土の藁をも食べたと伝わる。「三木の干殺し」 そして1580年(天正8)1月17日、1年8ヶ月に及ぶ籠城戦の末、長治は自刃し、三木城は開城した。 その後三木城は豊臣氏直轄地として城番が置かれ、1600年(慶長5)池田輝政が姫路城に入城すると、支城として伊木忠次が在城した。 1615年(元和1)一国一城令により三木城は破却され、その後小笠原忠真の明石城築城の際、三木城の用材が転用されたといわれる。 三木城は現在上の丸公園となる「本丸」・図書館・美術館敷地となる「二の丸」・その東の「新城」から成るが、それぞれ開発で明確な遺構はほとんど残されていない。南には「宮ノ上要害」・鷹尾山城等の城砦群が築かれている。 |
二の丸 図書館や美術館敷地となる |
二の丸・本丸間を通る道は堀跡か | 本丸 |
カンカン井戸 | 本丸から北側の眺め | 雲龍寺 |
雲龍寺 別所長治夫妻首塚 |
雲龍寺に立つ碑の台座は 外堀に使用された石だという |
雲龍寺南堀跡 正面の山は鷹尾山城 |