群馬県沼田市下川田町 --東から遠望-- |
別名 | 川田城 |
交通 | JR上越線「沼田駅」から徒歩30分。 |
築城年代 | |
築城者 | 川田氏 |
形式 | 崖端城 |
主な城主 | 川田氏・山名義季・祢津幸直(利直) |
三浦系沼田氏6代景久の4男である川田四郎景信が分家した際に築いたと伝えられる。景信の後、信光・信清・光清・光行と続き、1552年(天文12)沼田に進出した後北条氏により滅亡したと考えられる。 その後城主は真田昌幸家臣である山名信濃守義季となるが、1582年(天正10)中山城主中山右衛門尉が津久田城を攻めて討死、中山城が後北条氏方となると川田の地侍は動揺し、義季は責を負って所領の3分の1を没収され、沼田に移された。代わって祢津幸直(利直)や義季の子山名主水・弟山名弥惣が在城した。 1584年(天正12)9月、白井・中山方面から来攻した後北条勢に対し、幸直は300の手兵で撹乱し、撃退したが、山名主水は討死したという。以後弥惣も沼田に移され、小林文右衛門が城代となるが、この頃、中山城の後北条氏方赤見山城守は数年にわたり、川田の田畑を踏み荒らした為、餓死する農民が多かったが、小林文右衛門は赤見氏と協定して互いに農地を荒らさない取り決めをしたという。 1590年(天正18)真田信幸が沼田城主とあり、下川田城は廃城となる。 利根川西岸、沼田から権現峠を越えて吾妻に向かう主要路の渡河点を押さえる要衝に位置する。五角形の主郭に堀を廻らし、北・東・南に帯曲輪を設けている。更に東に半月状の小曲輪を構え、ここには真田氏の活動を中心とした沼田・利根・吾妻における史伝「加沢記」の著者である加沢平次左衛門墓が立つ。また付近には川田四郎光清の娘で歌人として知られる円珠姫の旧跡である遷流寺や宮塚の薬師堂がある。 |
案内板 | 加沢平次左衛門墓 | 城址から北西、沼田城方面 |
城址東側 | 遷流寺 |
宮塚の薬師堂 |