1521〜28年(大永年間)または1558〜70年(永禄年間)中山氏により築かれたと考えられる。中山氏の出自については武蔵七党の一つ児玉党の阿佐見弘方の子実高を中山氏の始祖とする説、または岩櫃城主斎藤憲行が中山に置いたと伝える次男次郎幸憲を中山氏の始祖とする説があるが、斎藤憲行は阿佐美氏の出自であるといわれており、その点については一致する。ただ文献中の沼田衆の中に中山氏の名は見られず、阿佐美小太郎の名が記載されており、永禄年中に於いてこの中山城主は阿佐美氏として扱われている。 中山安芸守は上杉謙信に属していたが、1579年(天正7)武田勝頼に従うようになる。 1582年(天正10)6月、武田氏方真田昌幸の沼田城代である矢沢頼綱の命を受けた安芸守の子、17代中山右衛門尉は津久田城を攻めて討死、弟九兵衛は名胡桃城に落ちて、中山古城は後北条氏方白井勢に占領された。そして後北条氏が南西に中山城(おみ城)を築くと廃城となった。 城址は馬蹄形の尾根上に築かれた山城とこれに囲まれた谷戸(小屋場)から成る。西側尾根上、主要部は二の丸・本丸三の丸と並び、それぞれ堀切で区切られ、数段の腰曲輪が構えられている。北から東側尾根上は緩やかに傾斜する地形で東側には横堀が設けられている。 |