1177〜90年(治承・文治年間)松浦氏始祖である源久の孫といわれる源披(峰披)により築かれたとされ、披の子である源持の代になると平戸に移った為、以後長い間廃城になったといわれる。 戦国時代、龍造寺氏が台頭すると上松浦地方の防備の最前線として獅子ヶ城の重要性が再認識され、1545年(天文14)岸岳城主波多氏をはじめとする上松浦党一同は日在城主鶴田直の子である鶴田前に再建を命じ、この地方一帯を治めさせた。 1593年(文禄2)主家である波多親が豊臣秀吉の不興を買い、改易される前後、鶴田賢は多久氏に仕えて東多久に移り住んだ為、獅子ヶ城は再び廃城となった。 波多氏改易後、唐津藩主寺沢広高は獅子ヶ城に城番を置き、現在見られる遺構はこの時改修されたものと考えられる。1615年(元和1)一国一城令により廃城となるが、古城番として岩屋村に監視の武士が常駐した。以後唐津藩主は代々古城番を置いたが、1817年(文化14)幕府領になると廃止されたと伝わる。 南麓、32号線沿いに城址碑が立ち、城址・駐車場まで舗装道が続いており、駐車場から東尾根上には堀切を挟み、出丸が築かれている。駐車場西から三の丸に至る登城路があり、三の丸周囲には大規模な石垣が残る。三の丸中央部の二の丸は堀切により独立した曲輪となり、西にかけて井戸曲輪・本丸、本丸南下には一の曲輪・二の曲輪が設けられており、各所に石垣が良く残されている。 |