高遠城

高遠城たかとおじょう
長野県伊那市高遠町東高遠
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--高遠城・伝大手門--
別名 兜山城・甲山城
交通 「高遠駅」(バスターミナル)から徒歩20分。
築城年代 1547年(天文16)
築城者 武田信玄
形式 平山城
主な城主 武田勝頼・仁科盛信・保科正直
1545年(天文14)高遠に侵入した武田信玄は、1547年(天文16)3月、伊那谷攻略の拠点として山本勘助、秋山虎繁(信友)らに命じ大規模な改修を行っており、これが高遠城に関する記録上での初見である。武田氏以前、この地は諏訪一族である高遠氏が領していた。その居所は不明であるが、高遠城は高遠氏の居館を改修したものとも考えられる。
その後は大島城飯田城と共に、武田氏の伊那谷支配の拠点となった。
1562年(永禄5)から1571年(元亀2)の間は武田勝頼が城主であった。
1582年(天正10)織田信長による甲州征伐の際、信忠が5万の兵を率いて伊那口から侵入し、高遠に迫った。城主仁科盛信は降伏を勧める僧の耳を切り落として追い返し、僅かの兵で織田勢を迎え撃つが、大軍の前に敗れ、自刃した。武田氏滅亡後、毛利秀頼(長秀)が入城するが、間も無く本能寺の変が起こり、信長没後は徳川氏の支配下に入り、保科氏が入城する。その後豊臣氏の支配下に入ると、毛利氏、京極氏が居城した。
大手坂に残る石垣 大手門跡
築城当初は搦手であったが、
江戸初期に大手に変わった。
勘助曲輪
現在は駐車場となる
本丸・二の丸間空堀に架かる桜雲橋 本丸・二の丸間空堀 本丸
本丸・南曲輪間土橋 南曲輪 南曲輪・法幢院曲輪間空堀・白兎橋
法幢院曲輪 法幢院曲輪南空堀 搦手
築城当初の大手にあたる
搦手空堀 進徳館
城主内藤頼直の時、開校した藩校
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建福寺
右・諏訪御料人墓(武田勝頼母)
中央・保科正直墓
左・保科正光墓

参考文献 「信濃の山城と館 戎光祥出版」
          「長野・山梨の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2008年11月