岩手県胆沢郡金ケ崎町西根原添下 --堀跡-- |
別名 | 弥三郎館 |
交通 | JR東北本線「金ヶ崎駅」から徒歩25分。 |
築城年代 | 平安時代 |
築城者 | 安倍頼時か |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 安倍宗任 |
平安時代、陸奥国奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手)を領し、俘囚の長を称した安倍頼時が設けた柵跡。頼時は奥六郡の入口を衣川関とし、12の柵を設けて一族を配し、独立国家的な体制を構築していた。この鳥海柵も12柵の一つで、3男宗任が守っていたとされる。 1051年(永承6)朝廷は陸奥守藤原登任勢を破り勢力を伸ばす頼時討伐の為、源頼義を陸奥守兼鎮守将軍に任じる。頼義は嫡男義家や義綱と共に直ちに北上し、多賀国府に着任するが、翌年後朱雀天皇の母である上東門院藤原彰子の病気回復の為の大赦令が発せられ、安倍氏の罪は許される事となった。 しかし源頼義が任期を終え多賀国府へ戻る途中、阿久利川河畔で夜営した時、何者かが乱入する事件が起きた。頼義はこれを頼時の子貞任の仕業として処罰しようとした為、頼時は一族を挙げて挙兵した。「前九年の役」 1057年(天喜5)戦いの最中頼時が流れ矢に当たり、この鳥海柵で亡くなるが、跡を継いだ貞任は、一族を良くまとめ安倍勢は優勢であった。しかし出羽国の俘囚清原武則らが頼義勢に加勢すると戦況は一変し、貞任は厨川柵で敗れた。 |
鳥海柵標柱 | 主郭 | 堀跡 |