1339年(暦応2)明智頼重が祖父である美濃国守護土岐頼貞の遺領を継ぎ、妻木郷を領した後に築いたといわれるが、不明な点も多い。発掘調査成果によれば戦国時代の築城と考えられている。 戦国時代に入ると土岐明智氏は没落し、代わって一族である妻木氏が城主となった。 1582年(天正10)本能寺の変後、明智光秀に加担した城主妻木広忠は近江国坂本において羽柴秀吉に攻められ自刃、その子貞徳は長男である頼忠に家督を譲って隠居した。後に頼忠は秀吉から旧領を安堵され、1600年(慶長5)関ヶ原合戦の際、父貞徳と共に東軍に属し、西軍方岩村城主田丸直昌の軍勢を破り、戦後、土岐群内7500石を与えられた。この時北麓に妻木陣屋が設けられた。 頼忠没後、頼利・頼次と続くが、1658年(万治1)6月、頼次は跡継ぎの無いまま没した為、妻木氏は断絶し、妻木城は廃城となった。 標高409メートル、城山に位置する。山頂には石垣により二段に分けられた本丸・二の丸があり、北側に桝形虎口が残され、その北の三の丸からは土岐・多治見市が一望出来る。本丸西には蔵跡・太鼓櫓跡があり、そこから西側を堀切で分断しているが、更に西側にも曲輪が続いており、当初は東西に長い縄張りだったが、田丸氏との合戦に備え、コンパクトに再編成したものと考えられている。
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