常山城

常山城つねやまじょう
岡山県玉野市宇藤木
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登山口地図

--兵庫丸に残る石垣--
別名    
交通 JR宇野線「常山駅」から登山口まで徒歩5分。
常山駅から南へ向かい、友林堂を過ぎて、地図の地点から登山
道があります。
築城年代 1469〜87年(文明年間)
築城者 上野土佐守か
形式 山城
主な城主 戸川秀安
1469〜87年(文明年間)国人上野氏により築かれたと推定され、以後上野氏は常山城を居城とし、児島北東部を掌握していたと考えられる。
城主上野隆徳の頃、備中国小戦国大名三村元親と血縁関係となり、三村氏領国支配における南東部の拠点、又備前国宇喜多直家を牽制する戦略拠点となる。
1572年(元亀3)三村元親は織田信長と結び、毛利氏に反旗を翻す。その後1574年(天正2)冬から翌年夏にかけて三村氏は毛利・宇喜多連合軍と激しく争い、元親は自害、三村氏は滅びた。「備中兵乱
その後毛利氏は備中各地で三村氏一族を掃討し、1575年(天正3)三村氏一族最後の拠点である常山城も、毛利氏の大軍に取り囲まれた。毛利方部将乃美(浦)宗勝に本丸直下の二の丸まで攻め込まれ、城主上野隆徳は自刃するが、隆徳の妻鶴姫以下34人の侍女達は、最後の戦いに挑んだ。しかし侍女達は次第に討ち取られ、鶴姫も本丸へ引き揚げると自刃した。
常山城を攻略した毛利氏は家臣を城番に置くが、1577年(天正5)頃、同盟者の宇喜多直家に常山城を与え、直家は重臣戸川秀安を城主とする。
1579年(天正7)宇喜多氏が毛利氏から離れ、織田信長に従うと、常山城を巡り、毛利氏と宇喜多氏は2度争うが、いずれも宇喜多氏が撃退している。
1600年(慶長5)関ヶ原合戦後、宇喜多氏が没落すると、備前国主になった小早川秀秋は重臣伊岐真利を城主とする。
1603年(慶長8)小早川氏の断絶後、代わって入部した池田忠継は常山城を廃城とし、その資材は下津井城の改修に使用されたと伝えられる。
本丸を中心とし、くの字状に延びる尾根上に階段状に曲輪を配した連郭式山城。一部無線施設として利用されているが、曲輪跡が良く残り、石垣も確認出来る。
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友林堂境内・戸川秀安(友林)墓所
宇喜多直家に仕えた常山城主
底無井戸 駐車場となる栂尾二の丸
奥の栂尾丸は無線中継所施設と
なるが、一部石垣が残る
北三の丸 北二の丸
城主一族・女軍墓碑が立つ
本丸
本丸に立つ城主上野隆徳碑 本丸・腹切岩
城主上野隆徳自刃の場と伝わる
惣門丸
北側に土塁が残る

参考文献 「現地案内板」
                    「広島・岡山の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2013年3月