1205年(元久2) 畠山重忠×北条義時 --畠山重忠公碑-- |
交通 | 相鉄本線「鶴ヶ峰駅」から徒歩10分。 旭区役所裏の緑道に一帯の史跡地図・案内板があります。 |
1199年(建久10)源頼朝没後、幕府の実権を握った初代執権北条時政は有力御家人を次々と排斥し、1203年(建仁3)比企能員一族を攻め滅ぼすと、次に目標とされたのは畠山重忠であった。 1204年(元久1)重忠の子重保は平賀朝雅と酒宴の席で口論となる。朝雅は時政の後妻牧の方の娘婿であり、恨みに思った時政と牧の方は稲毛三郎重成に謀り、3代将軍実朝に畠山謀反を訴えさせると、1205年(元久2)6月22日、重保は謀反人として討たれた。一方この3日前、菅谷館に居た重忠は鎌倉に変ありの報を受け、一族郎党134騎を引き連れて鎌倉へ向かったが、22日この地で待ち受ける北条義時以下数万騎と遭遇し、初めて謀られた事を知った。重忠は僅かな手勢であったが戦いを挑み、愛甲三郎季隆に射られ討死した。 23日、畠山父子謀殺に反対だった義時は、讒言した稲毛三郎重成と榛谷重朝を討った。その後時政と牧の方を鎌倉から追放し、平賀朝雅も討つと、2代執権として実権を握った。 |
鎧の渡し・首洗い井戸跡 鎌倉街道が帷子川を渡る場所で 川幅が広く鎧を頭に乗せて渡ったと 伝えられる。 |
首塚 | 古戦場周辺 |