宮崎県都城市梅北町 --城址遠望-- |
別名 | |
交通 | JR日豊本線「都城駅」から車で20分。 |
築城年代 | |
築城者 | 伴氏 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 畠山直顕 |
築城年代は不明だが、1026年(万寿3)大宰大監平季基が島津荘を開発し、この地を娘婿伴兼定に譲ると、兼定の5男兼高以降、代々受け継いだ。この間伴氏により築かれたといわれる。 1334〜38年(建武年間)多々良浜合戦に勝利した足利尊氏は、九州の大半が尊氏に応じる中、南朝方に従う勢力の討伐を畠山直顕に命じた。 1339年(延元4)8月、日和城主肝付氏8代兼重を討つ為、将軍山に陣した直顕は連日猛攻し、遂に力尽きた兼重は大隅高山へ敗走した。この時直顕は梅北も領有し、梅北城に居城したと考えられる。 1599年(慶長4)伊集院忠棟が伏見で島津忠恒に討たれると、その子忠真が都之城12外城に拠って島津宗家と争った。この庄内の乱の際、梅北城には日置善左衛門・その子覚内・渋谷仲左衛門らが拠った。 1615年(元和1)一国一城令により廃城となった。 |