1336年(建武3)3月2日 足利尊氏・少弐頼尚×菊池武敏・阿蘇惟直 --兜塚-- |
交通 | JR鹿児島本線「箱崎駅」から徒歩25分。 |
1335年(建武2)12月11日、後醍醐天皇に叛いて武家政権の樹立を目指す足利尊氏は竹之下合戦で新田義貞を破り、1336年(建武3)1月、京に攻め上がる。しかしその間奥羽北畠顕家が兵を率いて尊氏不在の鎌倉を占拠すると、そのまま尊氏の後を追い西上、尊氏軍を撃破した。 更に2月、豊島河原・打出浜合戦にも敗れた尊氏は海路九州へ敗走するが、その途上光厳天皇の院宣を得ており、一行が長門国赤間関に辿り着くと少弐頼尚・大友氏・島津氏らが馳せ参じた。 これに対し宮方に従う肥後国菊池城主菊池武重の弟武敏や阿蘇惟直・秋月氏らは挙兵すると、少弐氏居城である有智山城を攻め落とし、頼尚の父貞経は自刃した。更に菊池軍は進軍し、3月1日多々良川南河畔に布陣すると、宮方諸将が相次いで到着し、総兵力は1万余騎に膨れ上がっていた。一方足利軍も多々良川北河畔に布陣し、両軍は多々良川を挟んで対峙するが、足利軍は僅か1千余騎であったといわれる。 合戦は圧倒的な兵力差があり、菊池軍が優勢であったが、合戦中菊池軍は松浦党や神田勢等、離反が相次ぎ、多くが尊氏方に転じた為、形勢は逆転、武敏は敗走した。 4月3日、勢力を回復した尊氏は九州の押さえとして一色範氏(初代九州探題)を残して東上を開始し、湊川合戦に勝利して再び入京を果たした。 |