宮崎県都城市高城町大井手 --本丸・模擬天守-- |
別名 | 月山日和城・高城 |
交通 | JR日豊本線「都城駅」から車で20分。 |
築城年代 | 1331〜34年(元弘年間) |
築城者 | 肝付兼重 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 肝付兼重 |
1331〜34年(元弘年間)肝付兼重により築かれたとされる。兼重は三俣院司として三俣殿と呼ばれ、院内(現都城・三股町)を治めた。 1334〜38年(建武年間)多々良浜合戦に勝利した足利尊氏は、九州の大半が尊氏に応じる中、南朝方に従う勢力掃討を畠山直顕に命じた。肝付氏8代兼重は南朝方に従い、日和城に拠るが、1339年(延元4)8月、将軍山に陣した直顕に攻められた。兼重は南朝方から受けた錦の御旗の下に、連日激戦を繰り返すが遂に力尽き、日和城は落城、兼重は大隅高山へ敗走した。 1358年(正平13)11月、肥後国南朝方菊池武光は4千の兵を率い、日和城と石山城に拠る直顕とその子重隆を戦場川原合戦で破り、畠山父子は敗走した。 その後、日和城は和田氏の居城となり、更に島津氏の領となるが、1495年(明応4)伊東氏との飫肥・三俣の交換で伊東氏が領有し、八代長門守祐量が置かれた。 1532年(天文1)島津氏は伊東氏の8外城を奪回する為、都之城主北郷氏・飫肥島津氏・北原氏と共に日和城を攻めるが、他の7城が落ちる中、この城は祐量が討死するも落城しなかった。伊東氏は新たに落合刑部少輔兼佳を城主に置くが、1534年(天文3)兼佳は北郷氏に内通し、北郷氏の領有となった。北郷忠相は都之城を長男忠親に譲ると日和城を居城とした。 北郷氏に日和城を取られた志和池城主北原久兼は、伊東氏と共に日和城に押し寄せ、諏訪馬場・大楽で忠相と2度争うがいずれも敗れている。 1599年(慶長4)伊集院忠棟が伏見で島津忠恒に討たれると、その子忠真が都之城12外城に拠って島津宗家と争った。この庄内の乱の際、比志島義智・小牟田清五左衛門が籠もるが、乱後再び北郷氏が領有する。 1615年(元和1)一国一城令により戦火を重ねた日和城は廃城となった。 |