長崎県長崎市戸町5丁目 --西から遠望-- |
別名 | 増台場・長崎台場 |
交通 | JR長崎本線「長崎駅」からバス「魚見山」下車。 |
築城年代 | 1810年(文化7) |
築城者 | 福岡藩 |
形式 | 台場 |
主な城主 | 大村藩 |
1635年(寛永10)より始まる鎖国令後、唯一の窓口である長崎港警備の為、複数の台場が設けられた。1641年(寛永18)港口の戸町及び対岸の西泊の両所に番所が設置されると、次いで1653年(承応2)白崎・女神(大村領)・高鉾・陰の尾・長刀岩(佐賀領)・大多越・神崎(長崎領)の7ヶ所に台場が設けられた。「古台場・在来御台場」 1808年(文化5)フェートン号事件後、警備不足を痛感した幕府は佐賀藩に命じて神崎・女神・高鉾・陰の尾に台場を増設させる共に沙崩に新設させた。「新台場・新規御台場」 更に1809年(文化6)浦上岩瀬道・稲佐・高浜・野母・樺島各地に台場を新設する。 次いで1810年(文化7)福岡藩に命じて神崎・高鉾・長刀岩の更なる増設と魚見岳台場の新設をさせた。「増台場」 1853年(嘉永6)佐賀藩に命じて神ノ島(5ヶ所)・伊王島(4ヶ所)にも台場を設置している。「佐賀台場」 このように幕末の長崎港内外は要塞化されていた。 魚見岳台場は1810年(文化7)福岡藩(藩主黒田斉清)により構築された増台場の一つで、石蔵や石垣が良好に残されているようである。 |