1199年(建久10)源頼朝死後、鎌倉幕府御家人であった梶原景時は有力御家人の弾劾を受け、鎌倉を追われると、翌年一族を引き連れて上洛するが、その途上駿河国狐ヶ崎において在地武士に討たれた。この景時追討の功により地頭職を与えられ、因幡に入部した矢部暉種により築かれたとされ、以後16代吉茂まで矢部氏の若桜統治の拠点となった。 応仁・文明の乱の際、矢部定利は西軍山名氏に従うが、1487年(長享1)私部城主毛利次郎貞元が山名一族である山名政実を擁立して反乱を起こすと、定利は政実方に与した為、1489年(延徳1)因幡国守護山名豊時に攻められ自刃した。「毛利次郎の乱」 その後矢部氏は安芸毛利氏に従い、1575年(天正3)尼子氏旧臣山中幸盛(鹿之助)に攻められ落城するが、翌年毛利氏が攻略し、鬼ヶ城には毛利氏の在番が置かれた。 1580年(天正8)5月、織田信長の命を受けた羽柴秀吉の因幡侵攻により毛利氏の在番は鬼ヶ城から撤退し、6月但馬国八木城主であった八木豊信が入城し、次いで木下(荒木)重堅が城主となった。1600年(慶長5)関ヶ原合戦の際、重堅は西軍に従った為、戦後山崎家盛が入城した。 1617年(元和3)池田光政が鳥取城に入城すると一国一城令により廃城となった。 標高452メートル、鶴尾山山頂に築かれた主郭部と北尾根山腹に位置する古城部から成り、鳥取城・鹿野城と共に因幡三名城の一つに数えられる。古城部は矢部氏時代の中枢と考えられ、石垣等は見られないが、土塁や堀切が残されており、山頂部が整備された後も重要な拠点として機能したものとみられる。山頂遺構は木下・山崎氏時代に整備されたもので両氏の家紋が入った遺物が多く出土している。また石垣が随所に築かれているが、一国一城令に伴う破却の跡が見られる。特に天守台や虎口等、中心部や山麓から確認しやすい箇所の多くが崩れ落ちているが、西尾根、物見とされる六角石垣はほとんど完存した状態で残されている。 |