1333年(元弘3)足利尊氏の篠村八幡宮挙兵に応じた内藤備前守顕勝が戦功により船井郡を与えられ、八木に移った事に始まるという。そして1431年(永享3)頃、丹波守護代として内藤備前入道がこの地に入部すると、居城として整備されたものと考えられる。 1548年(天文17)三好長慶が細川氏綱を擁し、細川晴元と対立すると、内藤国貞は長慶に属し、1553年(天文22)9月、長慶部将の松永久秀らと共に晴元方の八上城主波多野晴通を攻めたが、同月18日晴通を支援した香西元成・三好政勝らに攻められ、八木城は落城、国貞は討死した。 その後久秀の弟長頼が八木城を奪還し、国貞の娘を娶ると、内藤備前守宗勝と称した。 宗勝の子はキリシタン武将であった内藤如安(忠俊)で、1573年(元亀4)足利義昭が織田信長と争った際、2千の兵を率いて二条城に出陣した。1579年(天正7)八木城が明智光秀に攻められ落城した後、如安は義昭に随行し、鞆ノ浦に隠棲した。その後小西行長・加藤清正・前田利家に仕えるが、1614年(慶長19)徳川家康の禁教令により、高山右近や妹ジュリアと共にルソンに追放された。その後丹波支配の拠点として亀山城が築かれるが、後に亀山藩が幕府に提出した絵図に本丸四方に石垣が描かれている事から八木城も支城として存続していたと思われる。 八上城・黒井城と並び、丹波国三大城郭の一つといわれるように城域は広く、支尾根に複数の曲輪が設けられ、堀切や土塁が良く残されている。 |