八上城

八上城やがみじょう
兵庫県丹波篠山市殿町
Mapion
登山口地図

--本丸に立つ波多野秀治忠碑--
別名 八上高城
交通 JR福知山線「篠山口駅」からバス「十兵衛茶屋」下車。
地図の地点、春日神社前から登山道があります。
築城年代 1508年(永正5)
築城者 波多野元清(稙通)
形式 山城
主な城主 波多野秀治・秀尚
波多野氏の出自については諸説あるが、石見国から上洛した波多野清秀(秀長)が、応仁の乱の戦功により細川政元から多紀郡を与えられ、この頃から丹波に土着したと考えられる。清秀は高城山南西の尾根先端部に奥谷城を築き、1508年(永正5)その子元清(稙通)の頃、高城山主峰部に八上城を築いて本城とすると、奥谷城は支城として改修された。
1538年(天文7)3代秀忠の頃、丹波守護代内藤国貞が拠る八木城を攻略し、代わって丹波守護代となった。
1549年(天文18)頃、元秀・晴通の頃には三好長慶や松永久秀と対立するようになり、一時八上城を攻め取られたが、1566年(永禄9)波多野晴通・秀治父子らが奪還している。1568年(永禄11)織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、秀治は信長に従属し、1575年(天正3)明智光秀による第一次丹波攻めの際、赤井(荻野)直正が拠る黒井城攻めに従うが、翌年突如寝返り、光秀の陣を急襲し、総崩れとなった光秀は亀山城へ敗走した。「赤井の呼び込み戦法
1577年(天正5)10月、光秀による第二次丹波攻めが始まり、八上城攻略の前哨戦として「モミヰ之館」や荒木城(細工所城)が攻撃され、「籾井両城(籾井城安口城か)」は落城したとされる。次いで波多野方11ヶ城の城も落ち、「荒木波多之両城(荒木城・八上城か)」を残すだけになったという。1578年(天正6)3月頃から光秀は八上城を包囲し、更に黒井城との連携を断つ為、金山城を築いた。長期にわたる籠城戦の末、翌年6月落城、秀治・秀尚兄弟らは近江国安土城に送られ磔となった。この時光秀は母を人質として開城させたが、織田信長が約束を破り秀治・秀尚兄弟らを磔とした為、母が城兵に討たれたという話もあるが、後年の創作とされる。
その後光秀が丹波を領有すると、八上城には並河飛騨守が城代として置かれ、1582年(天正10)光秀滅亡後は亀山城主となった羽柴秀勝家臣、浅野和泉守・余江長兵衛らが城番になったという。
1602年(慶長7)亀山城主前田玄以没後、八上城には遺領を継いだ前田茂勝が入城した。
1608年(慶長13)茂勝は改易となり、常陸国笠間城から松平康重が入城するが、翌年篠山城が築かれると、八上城は廃城となった。
春日神社から登山道があり、前田氏時代政務の中心であったという主膳屋敷から本丸までの尾根に鴻の巣番所や茶屋丸等が設けられている。本丸から南側にも曲輪が展開しており、城域は広く遺構も良く残されている。
主膳屋敷跡
前田主膳正供養塔
鴻の巣番所跡 下の茶屋丸
右衛門丸に残る石垣 三の丸
正面上段が二の丸
二の丸虎口
本丸石垣 本丸南下 岡田丸
本丸
波多野秀治忠碑が立つ
蔵屋敷 池東番所跡
堀切 麓に建つ重兵衛茶屋
江戸時代、参勤交代や一般の旅客の
休泊所として利用された
北西・篠山城から城址遠望

参考文献 「ひょうごの城 神戸新聞総合出版センター」
  「大阪・兵庫の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2013年3月