1532年(天文1)出雲国月山富田城主尼子氏の部将草苅衡継により築かれた。草苅氏は元々陸奥国斯波郡草刈郷の出身で、1338〜42年(暦応年間)足利尊氏から因幡国智頭郡を与えられて移り住み、1532年(天文1)因幡国淀山城から矢筈城に移った。 1559年(永禄2)父衡継から矢筈城を譲られた景継は勢力の衰えた尼子氏を離れ、毛利氏に従うが、1574年(天正2)織田信長の勢力を恐れ、羽柴秀吉の誘いに応じて密かに織田方に転じた。しかしこの事が小早川隆景に知られ、1575年(天正3)景継は城内で責めを負って自刃、跡を継いだ弟重継は毛利氏に忠節を誓った。以後矢筈城は宇喜多氏や秀吉等の軍勢から度々攻撃を受けるが、一度も落城する事は無かった。 1582年(天正10)高松城合戦後、毛利氏と秀吉の和議により、備中高梁川以東は宇喜多氏領となるが、美作の毛利方諸勢力は従わず、1583年(天正11)8月、重継も佐良山城を攻め、毛利輝元から感状を受けている。しかし1584年(天正12)度重なる秀吉側(宇喜多氏)の説得によりついに重継は矢筈城・淀山城を開城し、安芸国に退去すると、矢筈城も廃城となった。 矢筈城は矢筈山山頂の本丸を中心とする東尾根曲輪群(古城)と石垣段・成興寺丸・御殿を中心とする西尾根曲輪群(新城)から成り、県下有数の規模を誇る。また北西麓に位置する台ヶ原には内構と呼ばれる居館が設けられ、北から西に流れる加茂川は堀の役目を果たしていた。知和駅から登山口である千磐神社(パンフレットが設置されている)を経由し、美作河井駅まで3〜4時間の登山コースが整備されている。 |