小山城

小山城おやまじょう
栃木県小山市本郷町1丁目
Mapion

--塚田郭北堀切--
別名 祗園城
交通 各線「小山駅」から徒歩15分。
築城年代 1148年(久安4)
築城者 小山政光
形式 平城
主な城主 小山秀綱
小山氏は940年(天慶3)平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷の子孫で、政光を初代として成立した。1148年(久安4)この政光により小山城は築かれたといわれるが、南方に位置する神鳥谷曲輪が初期の居館ともいわれ、詳細は不明。
1380年(康暦2)5月、小山氏11代義政は領地争いをきっかけに対立する宇都宮城主宇都宮基綱を裳原合戦で討ち、鎌倉府の干渉に叛旗を翻した為、鎌倉公方足利氏満は関東八ヶ国に義政討伐を命じた。これは勢力を拡大する義政を抑圧しようとする氏満の策謀があったとされる。6月、武蔵府中に着陣した氏満は上杉憲方・上杉朝宗・木戸貞範の3人を大将とし、8月上旬頃、小山領へ攻め込んだ。8月12日、神鳥谷の大聖寺で「御陣取之合戦」、次いで29日、「義政屋敷西木戸口合戦」が行われたと「烟田文書」は伝えるが、この「義政屋敷」については神鳥谷曲輪であると考えられている。そして9月上旬、約1ヶ月に及ぶ合戦の末、義政は降伏した。
しかし翌年2月、義政は再び挙兵し、本城の鷲城を中心に、新城(長福寺城)・祇園城(小山城)・岩壷城(中久喜城か)・宿城(神鳥谷曲輪)の守りを固めて鎌倉府軍を迎え撃つも敗北、小山城に移って出家し、永賢と号した。
1382年(永徳2)3月、義政は三度挙兵し、小山城を焼いて脱出、密かに築城していた粕尾城に立て籠もった。しかし衆寡敵せず、義政は子である若犬丸を逃した後、自刃した。「小山義政の乱
奥州へ逃れた若犬丸は1386年(至徳3)5月、突如挙兵して小山城に立て籠もるが、鎌倉方に敗れ、常陸国小田城主小田孝朝の下へ逃れた。その後会津国に挙兵するが失敗、1396年(応永4)自刃し、若犬丸の遺児である宮犬丸と久犬丸は鎌倉に送られ、間も無く武蔵六浦湊に生きたまま海に沈められ、小山氏嫡流は途絶えた。「小山若犬丸の乱
同族の結城泰朝が小山氏の名跡を継ぐとこの小山城に居住したと考えられ、その後14代持政の頃に拡張整備されたと思われる。
1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻めの際、小山秀綱・政種父子は後北条氏に与した為、戦後追放となり、第2次小山氏も滅びた。
その後本多正純が3万石で城主となり、1619年(元和5)宇都宮へ転封となると、小山城は廃城となった。
本丸・城山公園 本丸に立つ碑 本丸土塁
本丸北空堀(旧結城道) 角馬出・空堀 西側を流れる思川
空堀 空堀 塚田郭
塚田郭・土塁 塚田郭・中久保郭間空堀 中久保郭北空堀

参考文献 「現地案内板」
         「戦国の城 学研」
                        「茨城・栃木・群馬の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2010年4月