赤石城

赤石城あかいしじょう
群馬県伊勢崎市曲輪町
Mapion

--同聚院総門--
別名 古伊勢崎城
交通 各線「伊勢崎駅」から徒歩5分。
築城年代 1523年(大永3)頃
築城者 赤石左衛門尉
形式 平城
主な城主 赤石氏・那波氏・由良氏・稲垣長茂
1523年(大永3)頃、赤石城主(飯土井)赤石左衛門尉がこの地に移り、築いたとされる。
赤石氏は那波城主那波氏に従っていたと考えられるが、1541年(天文10)那波宗俊が境に敗死すると、赤石城は太田金山城主横瀬泰繁の支配下に入り、その家臣林伊賀守高成が在城した。
1584年(天正12)後北条氏が由良氏を攻めた時、その隙に那波顕宗が奪還するが、1588年(天正16)再び後北条氏に追われ、那波城に入城した後北条氏家臣である大和晴親が兼帯する事となった。
1590年(天正18)徳川家康が関東に入国すると、白井城主本多広孝の支配地となり、1597年(慶長2)稲垣長茂が入城し、後に伊勢崎藩主となった。
1616年(元和2)伊勢崎藩2代藩主稲垣重綱が越後国三条に移ると赤石城は廃される。代わって厩橋城主酒井重忠の子忠世が2万石で伊勢崎領を与えられ、1681年(天和1)酒井忠寛の時、南隣に陣屋が設けられた。
同聚院から西側一帯が城址とされ、現在の曲輪町県営住宅付近に本丸があったとされる。一帯は宅地化されているが、北側は天然の堀であったと考えられる川(水路)が流れており、また同聚院の総門は伊勢崎藩初代藩主である稲垣長茂の屋敷門と伝えられる。
同聚院 同聚院北側を流れる水路 西を流れる広瀬川

参考文献  「群馬県古城塁址の研究・上巻 群馬県文化事業振興会」
   「伊勢崎市史通史編1 原始古代中世 伊勢崎市」
訪城回数 1
2016年5月