那波城

那波城なわじょう
群馬県伊勢崎市堀口町
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--城址・本丸跡碑--
別名 堀口城
交通 各線「伊勢崎駅」からバス「名和小学校前」下車。
築城年代 1532〜55年(天文年間)
築城者 那波宗俊
形式 平城
主な城主 那波氏
1532〜55年(天文年間)那波宗俊により築かれた。
1541年(天文10)宗俊は厩橋城主長野賢忠・武蔵国深谷城主上杉憲賢・武蔵国忍城主成田長泰・下野国唐沢山城主佐野昌綱と共に太田金山城主横瀬泰繁を攻めたが境城主小柴長光が叛いた為、敗死、那波城は横瀬氏の支配下に置かれた(年代については諸説あり)。
1560年(永禄3)関東に出陣した上杉謙信は那波城を攻略し、北条高広を置いた。この時宗俊の弟である那波宗元は本領を安堵されるが間も無く死去、顕宗が跡を継ぎ、高広の妹を室とした。1563年(永禄6)高広は厩橋城代となって移った。
1578年(天正6)謙信没後、顕宗は高広と共に後北条氏に従い、1580年(天正8)高広が武田勝頼に従った後も後北条氏方に留まったが、1587年(天正15)原因は不明だが、那波城は後北条氏に占拠され、大和晴親が置かれた。顕宗は城を落ちて上杉景勝を頼り、1590年(天正18)奥州九戸合戦で討死したという。
1590年(天正18)後北条氏滅亡後、関東に入国した徳川家康は三河国大給城主松平家乗を1万石で那波に封じ、 1601年(慶長6)美濃国岩村城に移ると那波城は廃された。
昌雲寺北側が城址だが、耕地整理により遺構は消滅し、本丸跡である伊勢崎市立第二中学校の西側に城址碑が立つのみとなる。なお名和小学校東側にも城址碑が立つが、こちらは城外となる。
本丸付近 昌雲寺 昌雲寺北側
付近を流れる水路 Mapion
城址碑
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飯玉神社(那波氏分祀)

参考文献 「群馬の古城 あかぎ出版」
                  「群馬県の中世城館跡 群馬県教育委員会」
                「茨城・栃木・群馬の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2022年9月