青森県五所川原市十三 --居館跡南土塁-- |
別名 | 十三湊遺跡 |
交通 | 各線「五所川原駅」からバス「駐在所前」下車。 |
築城年代 | 12世紀頃か |
築城者 | |
形式 | 館 |
主な城主 | 安東氏 |
安東氏の出自については不明な点が多い。一説に1063年(康平5)前九年の役で源頼義に討たれた安倍貞任の子高星丸が津軽に逃れ、安倍十郎貞義と称し、その子堯恒は藤崎城を築いた。そしてその子孫が安東氏を名乗るようになったといわれる。 元々この地には平泉藤原氏3代秀衡の弟秀栄に始まるという十三氏が在ったが、1229年(寛喜1)安東愛季あるいは堯季の時、安東氏はこれを討ち、十三湊に進出したとされる。古くから十三湊は北日本における重要な交易拠点であり、安東氏は日本海上を支配して莫大な財を成し、急速に繁栄していく事となる。 1394年(応永1)安東盛季の弟鹿季は兵200騎を率いて秋田の「湊」を討ち、以後湊城を本拠とする。(湊安東氏) 1443年(嘉吉3)盛季が南部義政に追われ渡島(北海道)へ逃れると、十三湊は衰退し、その後廃絶したとされている。渡島へ逃れた安東氏は、1456年(康正2)頃、政季の代に再び内地へ戻り、河北一帯を領した。そして1495年(明応4)政季の子忠季が檜山を本拠として、檜山安東氏を名乗ると、安東氏は檜山安東氏と湊安東氏が並存して戦国時代を迎える事となる。 推定居館跡付近に残る土塁は14世紀後半に造られ、15世紀前半に補強されているという。しかし近年の発掘調査により出土した遺物から十三湊遺跡は12世紀に遡ると考えられているようで、安東氏がこの地に居住した時期について判然としないが、北東にある福島城との関連も含めて、今後少しづつ明らかになっていくものと思われる。 |
十三湊遺跡入口に立つ案内板 この付近にも館があったようである |
中軸街路跡(中世メインロード) 両側には町屋や寺院があった |
推定居館跡 旧十三小学校敷地 |
居館跡南土塁 | 居館跡東土塁 | 居館跡東側・十三湖 |