檜山城

檜山城ひやまじょう
秋田県能代市檜山
Mapion
城址案内・入口地図

--本丸東曲輪枡形虎口--
別名 霧山城・堀内城
交通 各線「東能代駅」からバス「桧山」下車。
バス停から南へ進み、霧山神社下に案内板・入口があります。
築城年代 1495年(明応4)
築城者 安東忠季
形式 山城
主な城主 檜山安東氏
1443年(嘉吉3)津軽十三湊の安東盛季は南部義政に追われ渡島(北海道)へ逃れるが、1456年(康正2)頃、政季の代に再び内地へ戻り、河北一帯を領した。そして1495年(明応4)政季の子忠季がこの檜山城を築くと、檜山安東氏の居城として続く事となる。
檜山安東氏は湊城を居城とする湊安東氏と並存のまま戦国時代を迎えるが、檜山安東氏愛季の時、両家を併合すると、愛季は湊城へ移り、檜山城にはその子実季が置かれた。
1587年(天正15)愛季が亡くなり、実季が跡を継ぐと、叔父で湊安東氏嫡流を名乗る豊島道季の謀反による内紛(湊騒動)が起こった。湊城を奪われた実季は檜山城に150日余籠城し、苦戦するが、由利の赤尾津氏や羽川氏の援軍により勝利した。そして湊城を奪回して居城を移すと、秋田城介を称した。
1602年(慶長7)実季が常陸国宍戸に移ると、代わって佐竹義宣が秋田に入部した。檜山城には佐竹家方小場義成が居城し、1610年(慶長15)には多賀谷宣家が入るが、1620年(元和6)廃城となると麓に居館を築いて移った。
西端に位置する霧山神社から延びる尾根上に築かれており、南下には尾根に平行して車道が造られ、二の丸付近まで車で登れるようになっている。本丸から東に進むと土塁に囲まれた曲輪があり、見所の一つである枡形虎口が設けられている。更に東に進むと将軍山があり、土塁に囲まれた曲輪や館神堂跡がある。ここから先にも遺構があるようだが確認はしていない。
土橋跡
道路により破壊されている
三の丸西側堀切の一つ 三の丸から見る西側堀切
三の丸 三の丸から北方の眺め 二の丸
二の丸下に残る井戸跡 本丸下土塁 本丸
東曲輪 東曲輪枡形虎口 外側から見る東曲輪虎口
東曲輪虎口脇堀切 将軍山下に残る土塁 Mapion
浄明寺山門
「城下がりの門」といわれ、移築門と
されていたが、現在は否定されている

参考文献 「現地案内板」
                        「青森・岩手・秋田の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2013年4月